「アジア人なんかに負けるか」ラクロスの元日本代表・山田幸代が語る競技人生 オーストラリアのトライアウトでは「パスがもらえなくなったりもしました」

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2024年03月12日 10:41  webスポルティーバ

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山田幸代インタビュー(前編)

 2023年10月、国際オリンピック委員会(IOC)は2028年ロサンゼルス五輪の正式競技として5種目の追加を承認した。そのうちのひとつがラクロスだ。ラクロスがオリンピック競技に正式採用されるのは1908年ロンドン大会以来、120年ぶりのこととなる。

 今回は2007年に日本人初のプロ選手となり、オーストラリアリーグでプレーしかつ同国代表としてワールドカップにも出場している山田幸代さんにインタビューを行なった。

 山田さんには自身のラクロスとの出会いや競技の魅力、世界ラクロス協会のメンバーとして6人制競技「シクシーズ」のルール策定等に携わりオリンピック採用に大きく貢献したことなど、幅広く話を聞いた。

【ラクロスとはどんな競技?】
 クロスと呼ばれる先に網のついたスティックを用いて硬質ゴム製のボールを奪い合い、相手陣のゴールにボールを入れて得点を競う、ネイティブアメリカン発祥とされるスポーツ。10人制(国際ルール)は、男女でルールに違いはあるものの、両方とも10対10で、1クオーター15分、計4クオーターで行なわれる。長さ100〜110m、幅50〜60mというフィールドサイズも共通。男子ではボディチェック(身体接触)が許されるため、選手は防具を装着する。2028年ロサンゼルス五輪で採用される6人制(シクシーズ)は長さ70m×幅36mのフィールドで行なわれ、時間は8分×4クオーターとなっている。

【中高時代はバスケットボールに熱中】

――まずは山田さんがラクロスに出会うまでのスポーツ歴をお聞かせください。

「私、めちゃくちゃ運動神経が悪くて、小学生のころは駆けっこでも最下位とかだったんです。それでも卓球や剣道、水泳、バドミントン、野球などいろいろやって、スポーツ以外では習字、ピアノもやっていました。どれも三日坊主といわれるくらい短い期間しかやっていなかったのですが、バドミントンと水泳だけは続けました。

 中学からはいとこの影響もあり、バスケットボールを始めました。中高はバスケットボールだけをやっていたという感じです」

――バスケットボールは中学からと比較的遅く始めたにもかかわらず、長浜北高(滋賀)では3年連続でウィンターカップ(全国高等学校バスケットボール選手権大会)出場という経歴も目を引きます。

「いろんな人に出会えて、運が良かったと思います。中学は弱小チームだったのですが、強豪チームと対戦して相手に100点くらい差をつけられても、楽しそうにバスケットをしていたようです。その姿が印象的で必要な選手だ、とスカウトに来ていた高校の先生が言ってくれて。それで推薦してもらったんです」

――「必要な選手」とはどういう意味だったのでしょう。

「マンガ『スラムダンク』でいうと多分、私、海南高の神宗一郎みたいな感じで、シュートだけはすごい好きでしたし、ボールを最後まであきらめないで追い続けたり、負けていても笑ってプレーできていたことで、コートのみんなを盛り上げることができる部分が評価されたのかなと思います」

【『答え』が増え『形』になっていくのが魅力】

――それほどまでの強豪校でバスケットボールをしていた山田さんがラクロスを始めたのは、どういった経緯だったのですか?

「高校のバスケット部は365日のうち360日練習するくらい厳しい環境だったので、学ぶという点ではその3年間はとても濃かったのです。ただ、バスケは嫌いじゃないけどこの先(高校卒業後)もやりたいかと言われると、もっと違うことをやってみたい、スポーツじゃない何かをやってみたい、花の大学生をやってみたいという思いが強かったのです。

 それで、大学にバスケットの推薦で行く話も断って、バスケット部のない京都産業大(現在は女子チームはある)に進学したのです。

 ところが、大学入学後にたまたまバスケットの滋賀県国体代表候補として選ばれたのですが、ほかの候補選手たちはみんな、朝に自分で練習してから夜のチーム練習に臨んでいたんですね。それを聞いて、私も体力を戻さなきゃいけないと思っていた時に、ゼミの友だちがスティックを持っていて、ラクロスを知らなかったので『それ、何?』と。

 その友だちが『ラクロスは朝しか練習をしてないんだよ』と言うので『体力づくりに行っていい?』というところがスタートでした。そうしたらラクロス、めちゃくちゃおもしろくて。それまでいろんなスポーツをやってきましたが、スティックという道具だけで完結してしまう部分が新鮮でした。そこからラクロスにハマっていきました」

――ラクロスの魅力はどういったところにあると思われますか?

「魅力は大きく分けてふたつあると思っています。ひとつは"フィールド最速の格闘球技"と呼ばれるスポーツであるように、スピーディかつ激しさがあること。その上でポジションごとに求められる特徴が異なり、私みたいに足が遅くても反応が速ければ生きるポジションがあります。

 もうひとつが、『形』がないことだと思います。大半の選手が大学から始めるスポーツで、何かをやっても『これはやってもOKなんだ』とか『こうしたほうがいいんだ、修正してみよう』とった具合に結果が見えるのがすごく早くて、自分たちで答えを作っていけるスポーツなのです。

 今はまだまだマイナーだからこそ、何かひとつの『答え』が大正解じゃなく、『答え』のそれぞれが正解というか。これだよ、という確かなストラテジー(戦術)みたいなものがあるわけでもなくて、自分たちがやればやるだけ『答え』が増えいてく、形がないものを形にしていくところが面白さです」

――これだ、という戦術がないというお話でしたが、チーム競技としての魅力はどこでしょうか?

「戦術的にはサッカーの要素も取り入れられるし、バスケットの要素も取り入れられるところです。ラクロスではゴールの裏も使えるため選手たちの視野の角度が変わるので、攻め方的に非常に面白いなと思います。そのゴール裏からの戦略を立てるという思考がラクロスにはあって、ディフェンス側からすれば自分の見えないところから人が入ってくるのをいかに守るかといった駆け引きをするところは魅力です」

【「本当の世界」を知るために豪州へ】

――山田さんは日本代表を経て、2008年にはプロとしてオーストラリアリーグでプレーを始め、その後同国代表としてワールドカップにも出場(4位)、ワールドゲームズ(オリンピックに参加していない競技・種目の総合競技大会)では銅メダルも獲得されていますが、こうした経緯に至ったきっかけはどのようなものだったのでしょうか?

「私はずっと保母さんになることを夢として持ちながら行動ができていなかったのですが、子どもたちと話した時に、大きくなったら何になりたいかを聞いたら野球選手やJリーガーになりたいと言う子はいても、ラクロス選手になりたいと言ってくれる子はいませんでした。

 ですので、ラクロス選手になりたいという子どもを増やしたい思いがあって、日本で子どもたちに見てもらうためには日本のラクロスを強くしなければならない。そのためには誰かが世界のトップ・オブ・トップを見て、それを伝えないと実現しないんじゃないかと思ったのがきっかけです。

 そういう思いをいつも語っていた時に『じゃあ選手として契約をしてあげるから何かチャレンジをしたらどうか』と言ってくださる企業さんと出会い、選手契約をしてラクロスだけで生活ができる環境をいただいたのです。

 そして、その頃世界で一番強かったのがオーストラリアだったこともあり、そこでプレーをすることになったのです。ただ、日本はアメリカやカナダといった世界のトップのチームと練習試合では良い戦いができるのに世界大会では雲泥の差で負けてしまう。向こうの目の色を変えさせないと本当の意味でのトップ・オブ・トップはわからないと感じたのです。

 それで、ラクロスには人生で1度だけ(国の代表を)移籍ができるというルールがあったので、オーストラリアの選手になって、世界のトップ・オブ・トップの人たちが本気で戦うなかに入ってみようと。その経験を、指導者など伝える役として帰って来ることを目標にして、オーストラリアの代表選手になったのです」

――オーストラリアでのプレーも簡単ではなかったと思います。どのような壁がありましたか?

「ひとつにはやっぱり言葉の壁ですね。英語は全くの『ゼロ』で行ったのですが、何とかなるかなと思いながら、実際は何ともならなかったです。

 初めてオーストラリア代表入りに挑戦した時、私、落とされているんですね。その時に伝えられたのが『サチは同じポジションのオーストラリア人よりもレベルは高かった。だけど君には言葉の壁がある』と言われたんです。

 あとは、ラクロスをプレーするなかで本当の勝負となると『アジア人なんかに負けるか』みたいな感じて落としにかかってくる。最初は『頑張れ、頑張れ』という目で見てくれていたのが、実力が近づいてくるとパスがもらえなくなったりもしました。

 代表チームのトライアウトには毎回300人くらいが集まり、そのなかで最後は18人まで絞られる厳しい競争ではありましたが、落ちた選手全員に対して1週間以内にフィードバックがあるんです。自分に何が足りなかったのか、しっかり明確に伝えてくれる。チームがそれぞれの選手に対して求めているものがはっきりするので、落ちた側も納得できるし、次の挑戦に向けての課題も明確になる。その点は非常に感謝していますし、選手が成長していく上では大切なことだと感じました」

後編に続く

【Profile】山田幸代(やまだ・さちよ)/1982年、滋賀県生まれ。中学からバスケットボールを始め長浜北星高では3年連続でウィンターカップに出場。京都産業大入学後にラクロスを始める。2007年には日本人初のプロ選手となり、2008年からはオーストラリアリーグでプレー。2017年のワールドカップ(世界選手権)とワールドゲームズにオーストラリア代表として出場している。世界ラクロス協会の理事やルール委員会サブコミッティチェアマンも務め、オリンピックで採用された6人制(シクシーズ)のルール策定にも携わった。株式会社Little Sunflower代表取締役社長。

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