部員19人、別海高校の最大の武器は「揺るぎなきチームワーク」 センバツ初戦の難敵相手にも「臆することなく戦わせてもらいます」

0

2024年03月19日 17:31  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

別海高校〜甲子園初出場までの軌跡(5)

 秋の北海道大会で目標のベスト4を達成した別海高校は、まもなくして翌春に開催されるセンバツの21世紀枠候補に選出された。

 監督の島影隆啓が、選手たちに明示する。

「センバツに行くつもりで練習するぞ」

【揺るぎなきチームワーク】

 別海は例年、シーズンオフの3週間を選手たちのアルバイトに充てている。遠征費の足しといった実用的な目的もあるが、島影の本当の狙いは地域貢献であり、親をはじめとした選手を支えてくれている人たちへの感謝をその身に刻ませることである。

「お父さん、お母さんが大変な思いをして働く。それを何日もかけて、やっと5万円以上もするグローブが買えるわけです。高校生って、言葉では『親に感謝の気持ちを』と言いますけど、本当に意味ではわかっていないと思うんですね。だから、少しでも親の思いを理解してくれたらという目的で、冬休み期間は積極的にバイトをさせているんです」

 この冬は10日間ほどに期間を短縮させた。センバツへ向けチームを強化することが主目的とはいえ、それが支援者への感謝とイコールになるという島影の思いもあったからだ。

 秋の教訓を経て、彼らは課題の克服に励む。

 エースの堺暖貴は球速アップを目指してウエイトトレーニングの回数を増やし、股関節の柔軟性や胸郭の可動域を広げるなど全身のバージョンアップに努める。中道航太郎は扇の要として守備力の強化を打ち出し、千田涼太、影山航大、寺沢佑翔はバッティングの向上に意欲を見せた。

 寺沢が自信を漲らせながら、オフの自分たちの取り組みについて語る。

「自分たちは部員が少ないですけど、その分、チームのコミュニケーションはどこにも負けないというか。守備の連係のよさだったり、つらい練習をみんなで乗り越えられることだったり、それがここ一番での勝負強さにつながると思って練習できていると思います」

 揺るぎなきチームワーク。それは、この世代のスローガンとも言える「圧倒的に勝つ」にも深く関係している。

 千田が誇るように言う。

「試合でのことというよりは、普段の取り組みで『圧倒しよう』と。練習での行動から試合中の全力疾走とか、みんなそこにこだわっているつもりですし、秋の大会を通しても『どこにも負けてない』と思いました。この代が結果を出せている要因はそこかなって」

【「やっぱり、ここに来てよかった」】

 ムードメーカーの中道を中心とした、チームの明るさ。出場は未確定ながらも、「センバツに出る!」と意気揚々に鍛錬を積む先輩たちの姿に触れ、1年生の立蔵諄介(たてくら・しゅんすけ)は自分が決めた道の正しさを再確認していた。

「やっぱり、ここに来てよかった」

 札幌市で育った立蔵は、中学時代に所属していたチームが合わず精神的に追い詰められ、学校に通えない時期があった。そんな苦悩を経て移籍した軟式野球チーム『オックスベースボールクラブ』は、選手に「野球を楽しむ」ことを第一に教えており、立蔵にとっての原風景となっていった。

 バッターとして中軸を打ち、ピッチャーとしても最速133キロを誇っていた中学生は強豪校からマークされる存在となった。しかし立蔵の高校選びの基準は、自然と「強い」より「楽しめる」ほうへと比重が傾いていった。

 そんな折、オックスでも指導しているバッティングコーチの小沢永俊から別海を勧められ、チームメイトの波岡昊輝(こうき)、川上大翔(たいと)と練習会に参加した。

 ほぼ、即決だった。

「練習中の声の出し方とか、活気がすごくオックスに似ていて。監督さんと話させてもらった時もすごく熱意が伝わってきて、『このチームいいな』って」

 宿泊先で波岡、川上に「ここ、いいよな」と立蔵が言うと、ふたりとも「ここだな」と賛同する。そして3人は、監督の島影に「別海に行きます」と約束し、札幌へ帰った。

 それから約1年後の昨年秋。立蔵は中軸を担い、波岡はリードオフマンとしてチームを支えた。川上も背番号7を勝ちとった。

 別海中央中時代に全国を経験する堺たち5人の先輩を含め、少数ながら精鋭が揃う。

【初戦は難敵・創志学園】

 そんなチームを形成させた功労者は、やはり監督の島影に尽きる。

 2016年に別海の監督となってから、楽より苦のほうが多かった。

 監督就任時に、「10年で甲子園に出る」と宣言した際は、別海町の誰もがそんなことが起きるなんて思わなかった。練習試合で立て続けに10点以上もの大差をつけられて敗れ、選手たちと泣きながら語り合った逸話だって、当時は冷ややかな視線を送っていた者だっていたかもしれない。

 だからこそ島影は、語気を強める。

「別海町をひっくり返す」

 周りから笑われようと、バカにされようと自分が発した挑戦に責任を持ち、踏みにじられてもグラウンドに根を生やし続けた。

 コンビニの副店長と野球部の監督。二足の草鞋を履き、1日6時間にも満たない睡眠時間ながらも足を棒にして中学校を回り、きれいごとを並べることなく厳しいところは厳しくすると、指導者の信念をぶつける。

 小学生を対象とした野球教室を定期的に開催し、少年たちに「甲子園」という夢を抱かせる。そして、別海野球部に入部した選手には経験の有無関係なく、根気強く基礎を叩き込む。

 そう、しんしんと。まるで北海道に大雪が積もるように、島影はグラウンドに熱を落とし続けるのである。

 武修館時代から苦楽をともにしてきた、トレーナーの渡辺靖徳がしみじみと言葉を紡ぐ。

「あきらめないこと。これは島影監督の才能だと、僕は思っているんです。どんなことがあってもあきらめない。だからこそ、僕や小沢さん、大友(孝仁)トレーナー、佐々木(護)トレーナーと、外部から人が集まってきて、高校が変わっても彼への協力を惜しまないんです。今年、甲子園に出られるのは島影監督の大きなエネルギーがあったからなんですよ」

 覚悟を決めてから8年。島影は10年を待たずして別海を甲子園へと導いた。

 懐疑的だった町は、今や最大の支援者だ。ふるさと納税を財源とした総額5000万円もの補助を町議会で可決させた。島影の熱が人を動かし、町を変えたのである。

 3月13日。甲子園球場での公開練習で、島影は19人の部員とともに初めて聖地の土を踏みしめた。

「やっと、ここまできたな」

 初戦の相手は創志学園。東海大相模で春夏合わせて4度の全国制覇を経験する、百戦錬磨の門馬敬治が率いる難敵である。

「全国を知る監督とチームですから。強豪であることは最初からわかっているので、臆することなく戦わせてもらいます」

 1990年夏に出場した中標津よりもやや東、東経145度7分。別海は歴代の甲子園出場校のなかで「最東端」からの出場となる。

 東から昇る太陽。暖かな風。

 春の甲子園が、別海を待つ。

おわり

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定