『虎に翼』、ドラマでは描かれない東北帝国大学の情けないウラ事情

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2024年04月27日 20:01  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が今期のNHK朝のテレビ小説『虎に翼』を歴史的に解説します。

目次

女性弁護士より50年も前に女医が存在した理由は?
女医誕生の背景に、男性社会からニーズ
文部省が定める「正しい女子教育」とは?
東北帝国大学、女子入学をめぐる情けないウラ事情

女性弁護士より50年も前に女医が存在した理由は?

 NHKの朝ドラ『虎に翼』、ついに明律大女子部を修了した寅子(伊藤沙莉さん)たちが、明律大学法学部に正式に入学し、男子学生たちと机を並べて学べることになりました。一見、フェミニストのように見えた花岡(岩田剛典さん)が、ウラでは「女は甘やかすとダメだ」と堂々と発言するなど、女子部時代とは異なる男子生徒との不協和音がすでに聞こえており、なんだか気がかりです。

 ドラマのヒロイン・寅子のモデルである三淵嘉子も寅子同様に当初は医者になるか、弁護士を目指すかで悩んだそうですが、弁護士の道をあえて選んだのは、すでに女医が日本社会にはそれなりに存在していたという現実があったからかもしれません。

 日本で「医師試験」を最初に突破し、医師免許を得た女性が出現したのは、早くも明治18年(1885年)のことでした。女性弁護士よりも50年以上も前に、女医は日本社会に誕生していたのです。

 日本人女性が大学で学んだ最初の記録は、大正2年(1913年)、東北帝国大学理科大学(現在の東北大理学部)に入学した3人だったのですが、ここで思い出してください。女医の誕生はそれよりも28年も早いのです。「あれっ」と思ってしまいますよね?

 しかし、これには驚くべきカラクリがありました。

 この当時、大学を卒業していなくても、医師になることが許されていたのです。

女医誕生の背景に、男性社会からニーズ

 現代日本では医師試験は最難関試験だとされ、その受験資格を得るために各地の医学部に入学すること自体が困難であることは「常識」です。しかし驚くべきことに、明治時代の医師試験には、男子生徒にしか入学を許可しなかった各地の医学校の卒業生だけでなく、内科、外科、眼科、産科などに2年以上従事した者であれば、男女ともに受験可能という「抜け道」が設けられていたのでした。

 日本で最初に医師免許を得て、女医になった荻野吟子は、現在でいう東京大の医学部や各地の私大医学部への入学を試みましたが、許可されなかったので、高階経徳という医師が下谷区練塀町(現在の千代田区・秋葉原)で開業していた好寿医院で実地研修を重ねた結果、医師試験の受験資格を得て、見事に合格したのです。

 荻野吟子は主婦でしたが、夫から性病を移されて健康を損ね、それが理由で離縁されたという悲劇を経験した末に医師を志しました。強い意思で自分の人生を切り開くことができた荻野ですが、それは当時の日本社会に女性医師に対する強いニーズがあり、それに後押しされた結果ともいえるのです。

 基本的に女性が、女性であることを理由に高等教育を受けられず、専門的職業にも就けなかった明治・大正期の日本において、女医だけが可能だった背景には、当時の日本のエスタブリッシュメントの男性が、自分の妻や娘の身体を男性医師に見せることを嫌ったという、何となく理解はできるけれど「ハテ……」と首を傾げざるをえない理由がありました。

文部省が定める「正しい女子教育」とは?

 その一方で、三淵嘉子たちが司法試験を突破し、日本最初の女性弁護士になったのは昭和13年(1938年)のことです。女性弁護士の誕生は、女医よりも半世紀も後だったのです。これも女性弁護士は、男性社会からニーズがなかったことが影響していそうです。

 背景にあるのは、家庭や社会の潤滑油のような扱いを受けていた女性たちが、弁護士になったり、そのための勉強をすることで「権利を知って、口やかましくなるのではないか」「男性以上の権利を主張しはじめるのではないか」、あるいは「女らしさを失うのではないか」というような危惧があり、男性たちから反発を受けていたことが指摘されます。

 女性が高等教育を受けることにも同じ理由で反対が強く、明治33年(1900年)に女子英学塾(現在の津田塾大学)、明治34年(1901年)に日本女子大学校(現在の日本女子大)などの女性のための高等教育機関が設立されてはいたのですが、これらの私立の学校は、文部省が定める「大学令」も認める正規の大学ではなかったのでした。

 当時の日本の文部省は、「良妻賢母」を育成する以外は「正しい女子教育」だと認めないという立場を打ち出していたからです。

東北帝国大学、女子入学をめぐる情けないウラ事情

 そんな中、繰り返しになりますが、大正2年(1913年)、東北帝国大学というれっきとした「正規の大学」に女子生徒の入学が許可されたのは、本当に画期的な事件ではありました。

 しかし、これにも情けないウラ事情があって、東北帝大に入学希望する男子生徒が少なく、定員割れが続いていたので、女子生徒を補欠として使うしかなかったということなのですね。

 当時の東北帝国大学の学長・澤柳政太郎は「女子生徒にも高等教育を!」という進歩的な考えを持っていたのですが、学長が変わると女子生徒の募集はしばらく停止し、柳沢も転任先の京都帝国大学では、女子生徒の募集は行いませんでした。京都帝大はすでに男子生徒から人気でしたから、女子による穴埋めなど必要なかったのです。

 東北帝大が、女子生徒を正規の学生だとして認めたのは、補欠採用から10年後、大正12年(1923年)になってからのことでした。男性学生が定員割れした場合にのみ、女性でも入学可能という限定的な許可ではありましたが……。なお、これに続くように大正14年(1925年)には九州帝大の法学部と農学部も女性の入学を認めています。

 私大では、明大に先んじること6年前、大正12年(1923年)に京都の同志社大学が女子学生を認めていましたが、これらの大学はあくまで「例外」で、それ以外の大学において女子生徒たちは「特例」として入学が認められるか、あるいは正規の学生ではなく、授業を聴くことができるだけの聴講生になるしか選択肢がありませんでした。

 しかも聴講生を希望しても、女性であることが理由で断られてしまうことのほうが多かったようです。

 どれほど多くの才能あふれる女性が、厳しい現実に耐えられず、教育を受け、世に出る前に夢を諦めてしまっていたかを考えると、とても残念な気持ちになってしまいますね。

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