所沢駅前に巨大商業施設が出現、そこは昔「電車の工場」だった

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2024年04月28日 06:30  ITmedia ビジネスオンライン

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所沢駅前に巨大商業施設が出現、そこは昔……

 2024年9月、西武線所沢駅西口から徒歩3分、西武所沢ショッピングセンターを通り抜けた先に大型商業施設「エミテラス所沢」が誕生する。西武グループの西武リアルティソリューションズと住友商事が手がける。エミテラスの“エミ”は西武グループのスローガン「でかける人を、ほほえむ人へ」の「笑み」に由来し、“テラス”は住友商事グループが大切にする「居心地の良さ」の象徴とのこと。


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 地上7階建てで142店舗が入居する。駐車場は約1700台、駐輪場は約2000台、敷地面積は約3万4000平方メートル(約1万246坪)で、ベルーナドーム(西武ドーム)の総面積の約8割。延べ床面積は12万9000平方メートル(約3万9246坪)で、イオンモール幕張新都心(約12万8000平方メートル)とほぼ同じだ。


 核店舗として、1階に「サミットストア」と「niko and ...」、2階に「ユニクロ」「H&M」「ドットエスティアクタス」、3階に「スポーツデポ」「ジュンク堂書店」「ノジマ」「アカチャンホンポ」、4階に「T・ジョイ エミテラス所沢(シネコン)」と「namco(ゲームセンター)」を据える。このほか、飲食、物販、リラクゼーション、教育、不動産、通信、ジム、眼科などが集積し、来場者の生活をサポートする。


 ここまでは都市近郊の大型商業施設と同じ。しかし「エミテラス所沢」の最大の特徴は「郊外でありながら、大手私鉄駅に近接する利便性」にある。なぜならこの敷地は鉄道車両工場だったからだ。西武鉄道直営の車両工場として、検査や修繕だけではなく、新造も行っていた。自動車やトラックより大きな鉄道車両をつくる工場だから、大規模な敷地を要した。「出荷」は西武鉄道と結ぶ専用の線路を敷いた。鉄道の付帯施設だから駅に近いわけだ。


●さかのぼれば陸軍の部品工場


 西武鉄道所沢車両工場について、そのものズバリ解説した文献がある。『所沢車両工場ものがたり』(西尾恵介著)だ。本書によると、ルーツは1921年(大正10年)に山林を切り拓いてつくった「帝国陸軍立川航空工廠(しょう)南倉庫」だった。武蔵野鉄道の所沢駅から引き込み線も設置された。太平洋戦争後、軍需工場を都心部から郊外へ移すことになり、南倉庫は「帝国陸軍立川航空工廠所沢支所」として航空部品の生産を始めた。


 戦時中に武蔵野鉄道は、西武鉄道と食糧増産を合併して西武農業鉄道となった。1946年に新生西武鉄道となる。西武鉄道の創始者、堤康次郎は企業グループ内に戦時中の資材生産を手がけた東京耐火煉瓦をつくり、戦後は復興社と名前を変えた。堤康次郎は戦後復興のために自社で電車を調達すべく、連合軍の資産だった航空工廠所沢支所を借り受けた。1947年、復興社所沢車両工場が発足した。


 ただし、当時は新車をつくれるほどの資金も物資もない。国が国鉄と同型の車両を造って私鉄に割り当てるという状況だった。西武鉄道はそんな割り当てを待てないと、各地にある被災車両を集めて修繕し、電車を仕立てた。この経験が職人たちの技術力を高めていく。仕立てた電車や貨車の修繕や点検も行った。そのなかには西武鉄道の歴史で有名な「人糞貨車」もあった。西武農業鉄道は沿線の食糧増産を使命としており、都心で集めた人糞を農村部に輸送していた。西武鉄道も引き継いだ人糞輸送は1951年に終了した。


 復興社所沢車両工場は、国鉄から払い下げられた木造電車を鋼製車体に改造する工事を手がけており、その合間に西武山口線の前身となる「おとぎ電車」のバッテリー機関車と客車も製造している。また、木工、建設機械、自動車販売などの会社や工場を合併しつつ、建設機械や重機、ヘリコプターの修繕や点検も行っていた。西武園ゆうえんち・としまえんの遊戯物の点検修理も手がけたという。


●珍しい「鉄道会社直営製造工場に」


 1954年になって、ついに新規設計による完全新製車両として「501系電車」を完成させた。前面2枚窓、片側3扉、窓の上下の補強を内部に仕込んだスマートな姿が特徴だ。ここから1999年までの45年間にわたり、西武鉄道の新型電車を生産した。1961年に復興社は西武建設に社名変更し、1973年に車両工場部門が西武鉄道に移管され、西武鉄道直属の車両製造工場になった。国鉄も含め、鉄道会社は車両を製造会社から購入する方式が主流だけれども、西武鉄道は珍しく、自社で車両を製造する会社だった。


 特に1959年に製造し、451系電車で実用化した「ST式扉開閉機構」は特許を取得し、多くの鉄道会社で採用された。空気シリンダーとゴムベルトを使って、両開きのドアを1つの機械で開閉できる仕組みだ。これは電動式が開発されるまで長い間主流となっていた。


 西武鉄道の路線が延び、輸送力を増強するため多数の新造車が必要になると、所沢工場だけでは足りず、他社の製造車両も増えてくる。初めて一部の編成を他社に発注した電車は初代レッドアローの5000系だった。現在、アニメシアターXなどで放送中のアニメ『終末トレインどこへいく?』に登場する新2000系電車も、所沢車両工場と東急車輌(現・総合車両製作所横浜事業所)でつくられた。アニメに登場する2両編成は東急車輌版だ。


 所沢車両工場が最後に新造した電車は9000系電車だった。1993〜99年にかけて、この形式はすべて所沢車両工場で製造されている。大ざっぱにいうと、所沢車両工場は「黄色い電車」まで手がけていて、車体に黄色がない車両はすべて外部発注している。これは車体の素材の違いでもある。鋼鉄製車体までは所沢車両工場で製造したけれども、車体にステンレス鋼やアルミ合金を採用するに当たり外注に切り替わった。


 所沢車両工場は1200両以上の車両を製造した。そして車両の製造が終わったあとも、所沢車両工場には車両の検査業務が残っていた。しかし、設備の老朽化、列車の長編成化に対応するため移転、閉鎖が決定した。2000年に移転先として武蔵丘車両検修場が開設された。


 工場移転をきっかけに、所沢市で街づくりの検討が始まり、用途地域の変更、都市計画道路の策定、土地区画整理事業が動き出した。2012年からまちづくり協議会が立ち上がり、2015年に土地区画整理事業の事業計画認可、2016年に再開発事業の事業計画認可という手順を経て、街区ごとの取り組みが進んでいる。「エミテラス所沢」は「所沢駅西口開発計画」として2022年に事業が公開され、起工式が行われた。


 「エミテラス所沢」は、かつてここにあった所沢車両工場の思い出を残す取り組みでもある。所沢駅から工場敷地内へ敷設されていた線路は撤去されてしまったけれども、改めてレールを設置して、この地区のシンボルとして歴史を伝えていくという。館内には新2000系の電車の運転シミュレーターを設置する。実際に鉄道員養成所の訓練で使用していたシミュレーターの一部とのこと。


●まちづくりに魅力的な「鉄道用地開発」


 鉄道用地が移転して新たな街ができる。その事例は過去にもあった。例えば汐留地区には築地市場に隣接する汐留貨物駅があった。コンテナ貨物が主流になると、貨物列車は大井埠頭の東京貨物ターミナル発着などに移った。国鉄の分割民営化に伴い、汐留貨物駅跡地は国鉄の赤字清算のために売却され、現在は超高層ビルが建ち並ぶ汐留シオサイトとなった。


 JR秋葉原駅は明治時代に貨物駅として開業した。神田川の水運と接続するためにつくられた駅だった。しかしトラック輸送には不利だったため機能を縮小し、のちに隅田川駅に機能を移転した。現在は神田青果市場の跡地とともに秋葉原クロスフィールドとして再開発された。


 JR飯田橋駅付近の飯田町には飯田町紙流通センターがあった。こちらも隅田川駅に機能が集約されて廃止され、現在は高層ビルなどの「アイガーデン」となっている。貨物駅移転はこのほかにも、品川貨物駅(インターシティ)、新宿貨物駅(タイムズスクエア)などがある。


 貨物列車は郊外移転してトラック輸送に切り替わるとして、悩ましい存在は電車の留置線だ。始発列車を運行するために都心や都心近郊に配置しておきたい。しかしそこは一等地でもある。電車を停めておくにはもったいない。不動産業界でいう「利回りの良い土地」だ。建物を建てるなど付加価値をつけた投資を行って資金を回収し、利益を得たほうがいい。


 その最も良い例が高輪ゲートウェイシティだ。旧田町電車区の広大な土地に東海道本線用の電車を停めておくだけではもったいない。そこでまず上野東京ラインを開通させて、尾久、大宮、小山、籠原に車両基地を移し、さらに山手線、京浜東北線の線路も移設して広大な再開発用地を得た。これだけの投資をしても「利回り」を期待できる土地だった。


 私鉄にも例がある。小田急電鉄の経堂工場と相武台工場は1962年に大野工場に移転し、跡地は2度の再開発を経て「経堂コルティ」になった。京成電鉄は津田沼駅に隣接して京成電鉄津田沼第一整備工場があった。現在は留置線を残して再開発された。


 東急電鉄は奥沢工場、雪が谷工場の機能を元住吉工場に移転したけれども、1972年に長津田工場が落成し、さらに工場機能が移転された。東急電鉄の場合は再開発にならず、そのまま車両留置線の拡張(検車区)に使われている。鷺沼検車区の一部も長津田に移転され、跡地は東京メトロの鷺沼検車区と工場になった。再開発の例としては自由が丘検車区が縮小し、商業施設「トレインチ自由が丘」になっている。


●再開発は上空に


 鉄道用地は駅のそばにあるから、再開発用地として魅力的だ。土地活用の面ではまだ「電車を置くだけではもったいない」ところがある。


 例えばJR大井町駅北側の東京総合車両センターは山手線の車両基地だ。山手線の大量の電車を収容するために2階建ての構造になっている。魅力的な土地だけど、山手線電車の移転先が思いつかない。京浜東北線の電車を収容する大田運輸区(旧蒲田電車区)ももったいない。松本清張の小説『砂の器』にも登場する有名な場所で、蒲田駅の南側にある。


 東急多摩川線と池上線の電車を収容する雪が谷検車区も住宅地としては一等地。元住吉検車区は設置当時、郊外の安い土地だったかもしれない。今となっては優良物件だ。


 京成電鉄の高砂車庫は、電車を192両も置ける広い土地がもったいないだけではなく、京成本線、京成金町線、北総鉄道線が分岐しており、高砂駅構内を複雑化している。開かずの踏切も問題になっていて、京成高砂駅の高架化と同時に移転したほうが良さそうだが進展していない。定期検査機能は津田沼車庫に移り、宗吾車両基地も拡張工事が始まっているので、何か対策が行われることを期待したい。


 ほかにも都心に近い車両基地があるけれども移転先がない。都心から離れすぎても回送距離が長くなって使い勝手が悪い。もし活用するならば、車両基地をそのままに、上空を使うという方法もある。東急電鉄は大岡山駅の真上に5階建ての総合病院をつくっている。この技術なら車両基地と商業施設、住宅を共存できるかもしれない。車両基地にとっても屋根があったほうが良いと思われるがどうだろう。


 あとは建設コストと回収の問題、利回りである。「エミテラス所沢」のような開発ができる場所、次はどこだろう。


(杉山淳一)


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