全身40%の火傷で植物状態に…男性が生還できた理由「母が手を握ってくれなかったら諦めて死んでいた」

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2024年06月12日 08:30  ORICON NEWS

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全身の40%にやけどを負った当時の濱安高信さん
 22年前、不慮のガス爆発事故に巻き込まれ、全身の40%に火傷を負った濱安高信さん。当時、濱安さんの深刻な状態から奇跡的な生還、退院にいたるまでの様子がテレビ取材され、メディアでも話題に。驚くべきことに、植物状態の時に家族や医師がどんな会話をしていたか、「今夜亡くなります」と宣告を受けた時のことまで“覚えている”という。事故当事者として、患者として、周囲の想いをどのように受け止めていたのか。当時のことを赤裸々に語ってもらった。

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■ライターの火が引火して爆発、火だるまになりながら119番「その場にいたら死んでしまう」

 平成14年5月24日、当時の実家があった大宮市(現在のさいたま市)で、後輩がタバコに火をつけようとした際、ガスに引火してしまい爆発。それに巻き込まれて火傷を負ってしまいました。火だるまになって転げまわり、火の粉を振り落としたのですが、部屋がもの凄い高温になっていたため、その場にいたら死んでしまうと思い、部屋から出て救急車を呼びました。

 火傷は顔と両腕と膝から下の両足にわたっていました。その時点では、すぐに死の危険が迫る状態ではありませんでした。翌日には目覚めて、「ただの火傷だ。治ればまた元の日常が取り戻せる」と考えたほどです。ですが、免疫力が下がってしまい、黄色ブドウ球菌という非常に強い細菌に感染してしまいました。普段は空気中のいたるところにある菌なのですが、感染したことにより急激に体に変化が起こり、多臓器不全とともに、敗血症になってしまいました。

 搬送先の医療センターでは、所属されている先生たち全員が私を救うことを諦めてしまい、別の病院へ搬送されました。

 私自身は、痛みを通り越して錯乱状態になってしまっていたので、火傷の部分を掻きむしらないよう拘束具というもので身体を動かないよう抑えてもらいました。火傷は今も見た目で跡は残ってしまっていますが、命の危険に陥ってしまったのは細菌感染の方でした。

■“最期”だと悟った際に選んだ言葉は“母の日に贈ったカーネーション”だった

 別の病院に搬送後も、意識は混濁しており、自分自身では指1本動かすことも、瞼を開けることもかなわない状態でした。人工透析や人工呼吸器、身体のいたるところに管が入れられて、医療機器によって生かされていました。先生から「これから全ての身体の自由が効かなくなる筋弛緩剤を投与するけど、最後に何か言っておきたいことはありますか?」と訊かれました。もう2度と話せなくなり、これが最期の言葉になるのだと悟った私は、母の日に22年生きてきて一度だけカーネーションをあげられたことを最期の言葉に選びました。

 「カーネーション嬉しかった?」と母に聞くと、「嬉しかったに決まっているじゃない」と泣きながら答えてくれました。母からの、その言葉が聞けたなら最期になっても良い。そう思った私は、先生に投薬を承諾しました。

 それから麻酔のように身体の自由が一切効かなくなり、眠りについたような感覚で植物状態になりました。すると、2〜3日後には身体は動かないものの、会話が聞こえるように。両親が面会に来てくれて、話しかけてくれている言葉や医師たちが懸命に命を救ってくれようとしている姿など、本当に全ての会話や行動を理解していました。意識がない期間は2〜3ヵ月あったと後になって聞きました。毎日私に懸命に話しかけてくれた母の声、先生の声まで、今もはっきりと覚えているのです。

■意識はあるのに体が動かない…そんな中で医師が両親に告げた「今夜亡くなります」

 ある日、先生から「今夜亡くなります」と告げられました。それは自分に対してではなく、両親に向けての言葉でした。「非常に危険な状態で、今夜亡くなる可能性がとても高いです。付き添いますか?」ともおっしゃっていました。

 その日、10時間以上も母が手を握っていてくれた感触も覚えています。「本当は今意識があって、生きているよ」と両親に伝えられない辛さと「今日で自分は死んでしまうのか…」という苦しみ、もっと色々なことに挑戦したかったし、テレビや雑誌に出ているような行ったことのない景色を見ておきたかった、家族や知り合いの人になぜたくさん優しく接してこなかったのだろうという後悔だけが残っていました。

 ですが、両親が諦めずに握り続けてくれていた手の感触と、「どうか高信を連れて行かないで」と祈り続けてくれた言葉のおかげで気を保ち続けることができました。

 当時のことは全て母の手帳に記録が残されています。確実に言えることは声をかけてもらえなかったり、手を握ってもらえていなければ、自分は諦めて死んでいたということです。「あとは本人の気の持ちようです」という言葉がありますが、あれは本当です。

 こんなにも痛くて、目も開けられず絶望しかないのなら諦めようかと思う瞬間が何度かありました。気を保っていないとどうにかなりそうな場面がありましたし、気を抜いたらそのまま死ぬ感覚がありました。生きることを諦めたくない気持ちが何より重要でそこにプラスの力を与えてくれるのが周りの方々の声なのです。

 医療関係者や両親は2〜3ヵ月後に目が自力で開けられた時、私が意識を取り戻したと感じているようでしたが、命懸けで助けてくださったことや母が祈っていてくれたこと、好きだったCDを流す許可をもらってかけてくれていたことから、どんな曲をかけてくれたのかにいたるまで全部分かっていたので、目を開けただけでこんなに喜んでいてくれていることが不思議でした。

■「話しかけても無駄」残酷な教授の言葉 絶望と怒りから救ってくれた母の存在

 悔しいこともありました。一度か二度しか診に来ていない医局の教授が、母に向かって「話しかけても無駄ですよ。機器が反応していないんですから」と言ったことや、これまでほぼ来たことはなかったのにテレビ取材の時だけ、映るために入って来て偉そうに「たいしたもんだな」と吐き捨てたこと――。すべて聞こえているのに、口も動かせず言い返せなかったのも辛く感じました。

 「あなたに助けられたのではなく、救命の現場で寝る時間も削って24時間体制で診て下さった医師のチームと両親のおかげです。教授さんは何もしていないじゃないですか? 植物状態の時に1度しかあなたの言葉は聞いたことがありませんでしたよ」と言い返せる状態なら言ってしまっていたかもしれません。

 一方、両親は先生から「(私の)意識がない」と言われていたので、私が目を開けた時、母は父の肩を叩きながら泣いて「本当に良かった。祈りが通じた!」と心底喜んでくれていました。

 最初は瞬きと眼球を動かすことしか出来なかったので、意思の疎通はあいうえお順のボードで一文字ずつ瞬きだけで言葉を紡ぐやり取りから始まりました。はじめは「ごめんね。こんな身体になってしまって」や「来てくれてありがとう」と伝えるのに40分以上もかかっていましたね。

 番組で放送された時、小学校からの同級生が映ってくれていました。最初は気丈に「助かって良かった」と喜んでいてくれていましたが、元気だった私の身体を知っていただけに、変わり果ててしまった私の姿に耐えられなくなったのか、命が助かって良かったという安堵、こんな身体になってしまったという悲しみの両方で涙を流してくれました。感謝を伝えるために「もう大丈夫だから元気になるから」とありがとうの気持ちを込めて、ハンカチを渡しました。

 震災などの有事の際、被災地で親族や知り合いの方が生きていた時に涙を流して喜ぶ姿を目にしますが、本当にその通りなのです。人は生きているだけで誰かを幸せにしているのだと思っています。

PROFILE/濱安 高信(はまやす たかのぶ)
二十歳の時に重度の火傷を追い、余命0日の宣告をうけるも、 600名ほどの輸血により奇跡的に助かる。車椅子から立ち上がれないと医師から告げられたが、リハビリにより装具を着けて歩けるように。書籍『余命1日の宣告』(パブフル)著者。高等学校卒業程度認定試験合格を経て、現在は慶應義塾大学経済学部通信部在学

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