プロ20年目の都倉賢のサッカー人生を変えたふたつのターニングポイント「プロ初ゴール」と「移籍先なき海外挑戦」

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2024年06月15日 10:30  webスポルティーバ

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ベテランプレーヤーの矜持
〜彼らが「現役」にこだわるワケ
第4回:都倉 賢(いわてグルージャ盛岡)/前編

 都倉賢が2005年に川崎フロンターレでスタートしたプロキャリアは、今年で20年目。Jリーグで積み上げた試合出場数は、カップ戦を含めて450試合を超えた。それでも今シーズンから籍を置く、自身初のJ3クラブ、いわてグルージャ盛岡で過ごす日々は毎日、新しい発見の連続だという。

「環境だけを切り取ったら、これまで在籍したJ1、J2のクラブに比べて正直、ないものだらけなんですよ。でも、今日の練習を見てのとおり、すごく天気もよくて、青空が広がって、9時半から仲間とサッカーができる幸せは、ここにもちゃんとある。むしろ、ないものだらけの環境に来たからこそ、そういう部分が浮き彫りになって、サッカーを楽しむという原点に立ち返れているし、その部分にフォーカスして過ごせています」

 そんな話を聞いた取材から3日後の天皇杯1回戦、北海道十勝スカイアース戦。都倉は今シーズン2つ目のゴールを決めた。

「キャリアを思い返しても、こんなに綺麗に右足で決めたのは初めてかも。日々成長ですね」

 だからサッカーは楽しい、と目を輝かせた――。

 37歳で挙げたビューティフルゴールとは対照的に、都倉がプロ4年目に挙げたプロ初ゴールは、自身も驚くほど手応えがない、偶発的に生まれたものだったという。公式戦での経験を積み上げるべく、川崎からJ2のザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)に期限付き移籍をした2008年の話だ。

「当時のフロンターレには同じポジションに、フッキ、ジュニーニョ、我那覇和樹さん、鄭大世さん、黒津勝さん、という錚々たるFW陣が在籍していて。僕自身は3年半の間に、J1リーグには5試合くらいしか絡めなかったけど、サテライトリーグや練習試合ではそれなりに結果を残せていた。だからこそひとつ下のカテゴリーなら、違いを見せられると考えていました。

 なのに、いざ公式戦になると、ことごとくポストに嫌われるなどして、とにかく点が入らなかったんです。その時に、人生で初めてどん底まで落ち込んで。自分でもこんなに弱気になることがあるんだなって驚くほど、沼にハマり込んでしまった。家に帰っても何もする気になれず、真っ暗な部屋で毎日ボ〜ッとしていました」

 当時はまだJ3がなかった時代。仮にJ2で結果を残せなければ、プロキャリアが終わってしまうという危機感もあったのだろう。川崎時代は、小学生の時に父に教えられた"大器晩成"という言葉を胸に「大きくなるヤツは遅咲きだ」と信じて疑わなかったが、草津ではそうは思えず、点を取れない事実は焦りとなって彼を苦しめた。

「そうした毎日でも、自分なりにもがいて点を取ることを模索していたら、(出場)12試合目にしてようやく、アウェーのサガン鳥栖戦でゴールを決められたんです。しかも、コーナーキックの際に自分の前にいた選手が競れなくて、僕の目の前でワンバウンドしたボールが、そのまま顔に当たって入るみたいな。正直、ボールの軌道もまったく見えていなかったので、自分から決めにいったというより、勝手にボールが当たってきてくれた感じでした。

 その時に、あれだけ求めていても入らなかったものがこんな形で決まるんだ、と驚くとともに、あらためてプロの世界で結果を出す難しさを実感した。あの1点がなければ、何もスタートできないままキャリアが終わっていてもおかしくなかったと思う」

 しかも翌節、7試合ぶりの先発メンバーに返り咲いた都倉は、当時、他を寄せつけない強さを示してJ1昇格を決めていたサンフレッチェ広島相手に2ゴールを叩き込む。

「それまで試合後のミックスゾーンを通っても誰からも声を掛けられなかったのに、点を取った途端、いろんなメディアの方が注目してくださるようになって。わかりやすいなと思う反面、これがプロという世界なんだ、と思ったし、点を取ることでしか、自分の価値は示せないという覚悟もできました」

 草津に完全移籍をした2009年は、点取り屋としての嗅覚を覚醒させ、43試合に出場し23得点とゴールを量産。同年のJ2リーグ得点王、香川真司(27得点/セレッソ大阪)に次ぐ得点数で、存在感を知らしめる。それは翌年、J1クラブ、ヴィッセル神戸への移籍にもつながった。

 プロ初ゴールが"点を取る"ことにおける最初のターニングポイントであるのに対し、今年で20年目を迎えたプロの"サッカーキャリア"としてのターニングポイントは2013年のシーズンを終えて、神戸から北海道コンサドーレ札幌に移籍するまでのオフシーズンだという。当時、27歳。以前から海外移籍を描いていた彼は、移籍先も決まらないまま借りていた家を解約し、ほとんどの家具を売り払い、車も手放して、身ひとつで日本を飛び出す。行き先は、デンマークだった。

「2013年でヴィッセルを契約満了になることもあって、いろんなチームから声は掛けてもらっていたんです。でも、海外挑戦をするならこのタイミングしかないな、と。なので、代理人にその意思を伝えて海外移籍の道を探っていたんです。でも、なかなか思うように話がまとまらなくて。それなら現地に行って直接テストを受けようと思い、1週間の予定でFCベストシェランの練習に参加しました」

 海外への思いを加速させたのは、神戸での相馬崇人との出会いだ。今の時代ほど日本人選手の海外移籍が活発ではなかった2009年に、浦和レッズから移籍先が決まらないまま欧州に渡り、2年半に渡って欧州でプレーした彼の生き様は、都倉に大きな刺激を与えたという。

「当時はJリーグで活躍し、日本代表に選ばれた選手が海外に行くのがスタンダードでしたが、ソウちゃん(相馬)は、どちらかというと異端児的な海外組で......。その彼とチームメイトになり、いろんな経験を掻い潜ってきたからこそのオーラとか、纏っている空気感、ワールドワイドな考え方、価値観に触れて、それは日本では得られないものだと確信した。同時に、自分がすごくぬるい環境でサッカーをしている気もして、一刻も早く海外にいかないと、今以上の成長はないんじゃないかと考えるようになりました」

 もっとも、そのキャリアにおいて日本代表に一度も選ばれたことのない都倉の名前がヨーロッパで知られているはずはなく、初日からチームには明らかに「よくわからない東洋人が来たぞ」的な空気が流れていたという。だが彼にとっては、それも含めてすべてが新鮮でしかなく、プレースタイルを含めてイチから自身をイントロデュースする時間は、自分を見つめ直すことにもつながった。
 
「僕は小学生の頃から慶應義塾に通い、内部進学生として中学、高校、大学と進学して(注:2005年に大学を休学してプロに転向)、ユースからプロになって、都倉賢を自己紹介しなくても周りに知ってもらえる環境で育ってきました。でも、いざ海外に出たら、ただの名の知れぬ東洋人でしかなくて。日本では強みにしていた"高さ"も、身長187cmの僕が埋もれてしまうほど、デカいやつがウジャウジャいるチームではまったく通用しなかった。

 けど、そんなふうに自分の強みだと考えていた部分が意外と強みではないことに気づいたからこそ、自分には何ができるのかを考えるようになったし、逆に強みだなんて思ってもみなかった部分が強みだと思えるようになった。日本人特有の協調性、勤勉性も日本にいたら当たり前のものだと思っていたけど、海外ではそれが重宝されると気づいたのもひとつですしね。また、ピッチ外のところでも、自分という人間を細かく因数分解したうえで、あらためて"都倉賢"を客観視できた気もした」

 クラブの意向を受け、当初1週間の予定だった練習参加は1カ月を数えたものの、結果的には契約に至らず、都倉はデンマークをあとにする。だが、「ハングリーさの塊みたいな環境」に身を置いた1カ月は、彼にかつてないほど色濃い時間として刻まれた。

(つづく)◆38歳になる都倉賢が「生涯現役」宣言>>

都倉賢(とくら・けん)
1986年6月16日生まれ。東京都出身。川崎フロンターレU-18を経て、2005年、在学中の慶應義塾大学を休学してトップチーム入り。2008年にJ2のザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)に期限付き移籍。翌年、同クラブに完全移籍し、2010年にはヴィッセル神戸に完全移籍。以降、北海道コンサドーレ札幌、セレッソ大阪、后Ε侫 璽譽鹹杭蠅妊廛譟次持ち味となる高さを活かして、各クラブで活躍した。そして今季から、J3のいわてグルージャ盛岡に加入した。

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