ソフトバンク最強リリーフ陣誕生秘話 勝利の方程式「SBM」はいかにして結成されたのか

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2024年06月19日 10:30  webスポルティーバ

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高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第7回

 オリックスのリーグ3連覇を陰で支えた投手コーチ・高山郁夫さんに指導論を聞くシリーズ「若者を輝かせるための対話式コーチング」の第7回。今回はソフトバンク投手コーチ時代の最下位に終わった2008年から一転、最強の勝ちパターン「SBM」が結成されるまでの秘話を語ってもらった。

【リリーフ陣の低迷もあり最下位】

── 王貞治監督の最終年となる2008年のソフトバンクは最下位に終わっています。

高山 8月までは2位にいたのですが、9月以降に一気に崩れて(6勝21敗1分)、最下位まで落ちてしまいました。

── 投手陣でとくに問題だったのは、リリーフ陣の低迷でした。

高山 篠原貴行や三瀬幸司など、それまで頑張ってくれた主力が晩年を迎えていました。コンディション不良もあって本来のイメージとはかけ離れたパフォーマンスになっていたので、本人たちもジレンマがあったと思います。ただ、彼らは気持ちの強い投手なので、見ている者としては「彼らで打たれたらしょうがない」と思わせる振る舞いをしてくれていました。

── どんな振る舞いだったのでしょうか。

高山 どんなに本調子ではない時でも、ファイティングポーズをとり続けてくれました。一番よくないのは、状態が悪いからと肩を回したり、首をひねったりと言い訳じみた仕草を見せること。ベンチからすると、「あなたひとりで野球をやってるんじゃないですよ?」と、一番とってほしくない態度なんです。

── アマチュアではそんな投手が多い印象です。

高山 気持ちはわかりますが、「今日はダメだ」とあきらめてしまう投手がいたら、野手はたまったものではありません。我慢して立ち向かっていく姿を見せることが大事なのは、プロもアマも変わりません。

── 2008年の最下位という結果を受けて、投手コーチとしては責任を感じていたのではないですか?

高山 もちろんです。最下位になって、王(貞治)監督が退任されて、本当に申し訳ない気持ちと、悔しさが込み上げてきました。

【ナイーブだったファルケンボーグ】

── その後、盟友の秋山幸二監督の就任が発表されて、高山さんは一軍ブルペン担当から一軍ベンチ担当へと配置転換されました。

高山 二軍、一軍で3年間コーチをやらせてもらって、ある程度の戦力把握はできていましたが、立て直すのは容易ではないと感じていました。秋山監督と話したのは、「とにかく7〜9回をしっかりと抑えられるリリーフをつくろう」ということでした。

── 9回の抑えは馬原孝浩投手がいました。2008年は故障で出遅れ、11セーブに終わっています。

高山 抑えは馬原しかいないと思っていました。野球選手としても人間としても任せるべき男だという認識は、秋山監督との間で一致していました。あとはまったくの白紙だった7回、8回を誰に任せるか。競争を勝ち抜いたピッチャーをしっかり見ていこうと考えていました。

── そんななか、来日1年目のブライアン・ファルケンボーグがセットアッパーに定着していきます。

高山 ファルケンは球威があるだけでなく、身長2メートルと大きいにもかかわらずコントロールもよくて、クイックモーションもできる。能力が高くて面白い投手でした。その一方で、すごくナイーブな人間でもありました。ヒジとヒザに故障歴があって激しい運動ができませんでしたし、来日当初はツーシームばかり多投して打たれるケースが目立ちました。

── 打たせてとる投球をしようとしていたのでしょうか。

高山 的山哲也バッテリーコーチによると、「メジャーではフォーシームを打たれたから、自信がない」と言うんです。でも、日本でツーシームを多投しても、やはりピリッとしませんでした。そこで「日本にはおまえみたいな角度のあるピッチャーがいないから、もう1回フォーシームを怖がらずに多めに投げてみたらどう?」と提案しました。すると、フォーシームで空振りやファウルがとれて、やっぱりいいんです。タテのカーブやフォークもよかったので、徐々にいい場面で起用できるようになりました。

── その後は問題なく活躍してくれたのですか?

高山 シーズンをとおしてナイーブさはありました。「自分の体はすぐに壊れてしまうから......」と弱気になってしまうことがよくあって。そのため、秋山監督には「ファルケンは2連投までで我慢してくれないか?」と伝えました。秋山監督は「3連投できないピッチャーを勝ちパターンに入れたら、リリーフ陣が回らないだろう?」と言っていましたが。当時はそういう時代でした。

── それでもファルケンボーグ投手は、3連投はできないと。

高山 ファルケンが言うには、「2連投なら気持ちも体もいい状態を継続できて、圧倒的な力が出せる。それを証明したら考えてくれるか?」と。実際に2連投までで回してみると、圧倒的な力を発揮してくれました。「3連投はない」という安心感が、ストレスなく彼本来の力を出せた要因になったのかもしれません。彼に「3連投はさせないから」と言った時の満面の笑みは忘れられません(笑)。

── あの剛腕にそんなナイーブな一面があったとは、意外です。

高山 そうでしょう(笑)。ほかにも「イニングの途中からでは投げられない」とか、いろいろと扱いの難しさはありました。ピンチの場面でマウンドに行くと、あの大きな体にもかかわらず手足が震えているんです。そこまで絶望的なピンチでもないのに(笑)。メンタル面は強いとは言えない投手でしたが、能力は抜群でしたから活躍してくれて本当にありがたかったです。

── 2010年にはリーグ最多の39ホールドを挙げて、最優秀中継ぎ投手を受賞しています。

高山 結果を残すにつれて、どんどん自信をつけていきました。実は彼の能力のなかで一番いいのは、コントロール。制球が崩れる心配がないので、安心して見ていられましたね。

【注目度が低かった攝津正】

── そして、7回はドラフト5位ルーキーの攝津正投手を起用しました。

高山 攝津は春季キャンプからあまり注目される存在ではありませんでした。私は同じ秋田県出身だったので、気にしていましたが(笑)。ただ、キャンプのキャッチボールを見て「ひどい投げ方をしているな......」と思ってしまいました。肩をかばって投げているような第一印象を受けたんです。

── 実際にメディカルチェックで右肩のコンディションが悪いことが判明し、開幕までに肩のケアに追われていたようですね。

高山 攝津はプロ1年目から27歳になる年齢で、「即戦力にならないと......」と必死だったろうと思います。キャンプ中のブルペンではあまり目立たず、周囲の評価も高くはありませんでした。でも、実戦形式からオープン戦に入るにしたがって、抜群のコントロールを披露するようになりました。球速はそこまで速くなくても、右打者に対してアウトローの真っすぐで見逃し三振がとれる。独特のショートアームから正確なコントロールを武器にして、オープン戦でしっかりと結果を残していきました。7回を任せたのも、彼が自分でつかみとったポジションなんです。シーズン中盤からはスピードも出てきました。

── 肩の状態が上向いたのでしょうか。

高山 シーズン中でもトレーニングを並行していて、ユニホームが筋肉でパツパツになっていました。キャンプ中とは体つきが変わって、マウンドでの貫禄が出てきました。本人の努力の賜物(たまもの)でしょう。

── 攝津、ファルケンボーグ、馬原の3投手による勝ちパターンは、それぞれの頭文字をとって「SBM」と呼ばれました。

高山 2008年の最下位から翌年にAクラス(3位)に入れたのも、3人の力が大きかったと感じます。秋山監督とは「7〜9回に野手も納得させるピッチャーをつくらないといけない」と話していましたが、その考えどおり成長していってくれました。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した

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