江川卓から通算9本塁打の理由を田代富雄が明かす「クセがわかっていた。だから打てたんだ」

0

2024年06月28日 17:30  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

連載 怪物・江川卓伝〜大洋の主砲・田代富雄の記憶(後編)

前編:「これがあの江川かぁ」大洋の主砲・田代富雄はあまりの速さに驚愕した>>

 野球に関して、うまく表現できないものを挙げろと言われれば、江川卓のボールもそのひとつかもしれない。一流のプロ野球選手がいろいろな投手の球を見てメディアにたくさんのコメントを残しているにも関わらず、江川の球だけはみんなが判で押したような表現しかしていない。

「とにかく質が違う」
「伸びがすごい」
「打てないじゃなくて当たらない」

 作新学院時代からずっと同じように表現されてきた。異次元の球を見せられると、思考回路が止まってしまうのだろうか。

【スピードよりも空振りを奪いたい】

 田代富雄と江川の通算対戦成績を見ると、124打数30安打(打率.242)、19打点、9本塁打。特筆すべきは、ホームランを9本も打っているところだ。田代はしみじみと述懐する。

「当時よく言われたのは、江川の球は初速と終速の差がない。決してしなやかっていう投げ方じゃないんだけど、球の回転がきれいだった」

 球速には初速と終速があり、初速は手からボールが離れた瞬間の速度で、終速はキャッチャーミットに収まる直前の速度である。現在は初速のみが表示されているが、70年代後半は終速が出ていた。その時代の映像を見ると、見た目には150キロ近いボールに見えても、表示された球速は130キロ台というのが多かった。

 2000年代以降、スポーツ科学のテクノロジーの発展により野球がより高度に多角的に分析され、いろんなことがわかってきた。江川は、自らのストレートについてこう言及する。

「スピン量が多くなると、重力に逆らうことになるのでボールが落ちていかない。わかりやすく言うと、伸びるってことなんですけど、伸びるがゆえに空気抵抗は多くなりますのでスピードは落ちます。だからスピードを出そうと思えば、ツーシームにして抵抗力を受けないように低めに投げればいいんです。でも、そういうのはあまり好きじゃない。スピードだけを追い求めようとは思わない。やっぱり、ストライクゾーン内でスピンさせたボールが落ちずに浮き上がってくるような感覚で、空振りを奪いたい気持ちが強いですから」

 だから江川はスピンを追い求めた。それは4歳から中学2年までいた静岡で過ごした時、天竜川での石投げが要因になっている。江川は小学校1年生から石投げをやっていて、100メートルほどもある向こう岸まで届かせるのを目標としていた。石を届かせるためにはどうしたらいいのかをずっと考え、たどり着いた答えが石を風に乗せる投げ方だった。その投げ方こそが、江川卓のピッチャーの原点と言っていい。

 ボールは強い空気抵抗を受ければ、浮力がかかり落ちづらくなる。そのためには人間の力では及ばないほどのバックスピンが必要であるが、原理的にはそういうことだ。それを知ってか知らずか、江川はいかにスピン量を多くできるかを考えながらピッチングしていた。

【カーブのときだけ左肩が上がる】

 江川はプロ入り4年目の夏に肩を痛めている。それ以降は、かつて怪物の名をほしいままにしていた威力あるストレートは激減し、コントロール重視のピッチングに転向せざるを得なかった。

 それまでの大洋(現・DeNA)との対戦成績を見ると、79年は6試合登板で2勝1敗、防御率1.97。80年は6試合登板で3勝2敗、防御率1.88。81年は6試合登板で5勝0敗、防御率1.26。大洋をねじ伏せていたのがわかる。

 堂々とした体躯からブルヒッターに思われがちな田代だが、じつは右中間方向にも打球を飛ばせる広角打法を目指していた。だが、チーム事情によりホームランを求められた。このことを田代に尋ねると、「ホームランを打ったといっても、現役19年で278本。数字的にはたいしたことない。80年、81年あたりはよかったけど」とうそぶく。

 80年には35本塁打を放ち、以降、6年連続して20本塁打以上をマーク。だが、86年には13本と激減してしまった。

「この年に監督の近藤(貞雄)さんに干されたの。四角い顔が嫌いだって。当時、中日にいた大島(康徳)さんがオレのところに来て、『近藤さんはね、四角い顔が大嫌いだぞ。オレ、言われたから』と言うから、そんなことないだろうと思って近藤さんに聞いたら、『田代、オレは四角い顔が嫌いだから』と。そりゃねぇだろうと思ったよ(笑)。でもこれ、本当の話だからね。近藤さんははっきりしている監督で、打てば使う。86年は5月までに10本打って、大洋の貯金が2あったかな。チームの成績も良かった。ところが、オレが6月に骨折して離脱したら(引き分け2つを挟んで)13連敗。近藤さんは『田代の離脱が大きい』と言ってくれた」

 この年を境に、田代の成績は一気に下降していった。

 田代にとって、数字的に見て満足いくシーズンは77〜81年(79年は除く)。江川の全盛期とちょうど被る。その江川から通算で9本塁打を放っているわけだが、田代はその理由について明かす。

「なぜ9本もホームランを打てたかと言うと、クセがわかっていたから。真っすぐのときはふつうなんだけど、カーブのときだけちょっと左肩が上がるんだよ。それで打てるようになった。左肩が上がらなかったらストレートだから。ただ、江川のストレートは伸びが違う。ベルトより少し低めの球を打ちにいったら、顔あたりに来るんだよね。だから、膝よりもちょっと低い高さを設定しないと、打てる範囲の高さに来ない」

 もはや劇画の世界である。高校生や大学生ではなく、プロで、しかも長年4番を張った男が大真面目で言うのだから、どれほど江川のストレートが強烈だったかがわかる。

 そして江川のもうひとつの決め球であるカーブについても、田代はこんなエピソードを教えてくれた。

「左肩が上がったら大きなカーブだったんだけど、途中からその球を投げなくなった。スライダーなのかな......曲がり方が小さくなった。そしたら肩の高さが一緒になって、そこから打てなくなった。まあ、プロの世界でほぼ真っすぐとカーブだけであれだけ勝つんだから、ほんとすごいよ」

 そして「最後のクジラ」と呼ばれたハマの大砲は、ホームランバッターゆえの血が騒いだのか、惜しげもなく願望を込めてこう言った。

「怪物、怪物って言われていたけど、高校の時が一番速かったらしいね。オレはそうだって聞いている。あれ以上に速いって、どんな球だよ? その球をこの目で見たかった。だから、高校時代の江川と対戦できたヤツは幸せだよな」

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定