「自覚症状はありませんでした。ですが、CT画像を見た瞬間に、肺がんだとすぐにわかりました」
そう語るのは、鳥取県米子市にある医療法人養和会で看護師として働く松本みゆきさん。職場の健康診断で、肺に異常があると知らせが届いたのは、2017年5月のこと。
写し出された影を見て自分はがんだと確信
「検査の2週間ほど前に子どもが風邪をひいて、それをもらって少し咳が出ていたので、その影響かなと思いました。勤務先の病院で再度レントゲンを撮り、大学病院から週1回診察に来ていた呼吸器内科の先生に診てもらうと“肺炎を起こしていたのかもしれない。もう少し様子をみましょう”ということになりました。毎年健診を受けていて問題もなかったので、この時点で不安には思わなかったんです」(松本さん、以下同)
しかし、4週間後に改めてレントゲンを撮っても、肺の状態は変わっていなかった。
「これはおかしいとすぐにCTを撮って。検査後、診察室で写し出された画像には、2センチほどの腫瘍が2つ写っていました。当時私は、担当の呼吸器内科の先生と仕事でも親しく、レントゲン写真やCTの見方を教えてもらっていたんです。なので画像を見て肺がんだとすぐにピンときました。ショックでしたね」
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その後すぐに、担当医の勤務先である鳥取大学医学部附属病院を紹介され、診断結果の説明は、同病院に助産師として勤務していた長女に付き添ってもらい聞いた。
「診断結果は、肺腺がんのステージ4でした。娘も医療従事者なので、お互い取り乱すことはありませんでした。ですが内心は、ステージ4イコール『死』を連想し、愕然としました。娘も言葉にはしませんでしたが、お母さんは死ぬんだ……と思ったそうです」
告知を受けた後、娘と2人でランチへ。
「そこで長女から“家のことはわかるようにしておいて”と淡々と言われたんです。この言葉で、確かにそうだなと。当時、次女はまだ小学生でしたし、治療が始まるまでの間にできる準備はすべてしておこう、と気持ちを切り替えることができました」
長女は職業柄か、常に冷静に対応。また、松本さんはケアマネジャーの資格も持っており、自宅療養に備えた家の片付けなどはスムーズに進んだ。
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「気がかりだったのは次女のことでした。親が病気になった時の子育てや、この先子どもがどんな困難を抱えるのかは、経験も知識もなく、非常に悩みました」
悩んだ末に、まず担任の先生に事情を話し、サポートをお願いしてから次女に伝えることに。
「先生は“なんでも言ってください”と快諾してくれて。その上で、子どもたち2人が家にいる時に次女に伝えました」
がんという言葉は使わなかったが、深刻な状況は隠さず伝えた。
「“お母さんは肺の病気があって、治療しないと死んでしまうかもしれない。だから、元気になるために、入院して治療を頑張るから”と話しました。次女は泣くこともなく、わかったと言ってくれました」
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この時の心境を、次女が中学生になってから聞いたところ“泣いたらお母さんが悲しむから泣かなかった”と、幼いながらに母を気遣ったことを教えてくれたという。
咳、息苦しさ……身体の変化に「死」がよぎる
肺がんの主な組織型(がんの種類)は4つあり、松本さんが罹患したのは、肺がんの中で最も多い腺がん。女性に多く、喫煙しているかどうかは関係なく発症するといわれている。今後の治療方針は、遺伝子変異の有無など、さらに詳しい状態がわからなければ決定できない。そのため、検査結果が出るまで4週間待つ期間があった。
「この1か月が一番苦しかったですね。身体の状態も日に日に悪化して、だんだん咳が増え、息苦しさも出てきて。病状が進行していることがわかり、本当に不安でした」
日に日に現実味を帯びてくる死の恐怖と闘いながら、両親と娘たちに遺書も書いたという。
「子どもへは“大きくなるまで見届けられなくてごめん”。そして両親には“先に死んじゃってごめん"。もう書いているだけで涙があふれてきて……」
そんななかで救いになったのは、仕事だった。なんと入院前日まで勤務を続けた。
「“家でひとりでいるといろいろ考えてしまうから、体調が大丈夫なら、月曜から金曜までは仕事をして、土日は休んで子どもたちと過ごしたら?”と上司が言ってくれて。もしずっと休んで家にいたら、ネガティブなことばかり考えていたと思います」
検査の結果、松本さんの肺腺がんにはALK(アルク)融合遺伝子という遺伝子変異が認められ、分子標的薬による薬物療法を行うことが決定。
「先生から、使用するのは高い治療効果が期待できる薬で、仕事もできると言われて。それを聞いて、望みがあるのかなと。死ぬ死ぬという思いから気持ちが切り替わったように思います」
入院中は、1日2回、薬を服用した。分子標的薬は、がん細胞の増殖に関わるタンパク質など、特定の分子を標的にしてがんを攻撃する薬。正常な細胞へのダメージが少なく、従来の抗がん剤と比べて吐き気などの副作用が少ないといわれている。
「私の場合、果物などが苦く感じる味覚障害と、皮膚に湿疹が出る副作用はありましたが、吐き気や脱毛はありませんでした。入院中も、資料作りなど、仕事もできたぐらい」
薬の効果でみるみる腫瘍が縮小し、2週間後に退院。その後1週間の自宅療養を経て仕事にも復帰した。
仕事復帰後は、自身のがんの経験を活かした新たな取り組みをスタート。がん患者同士が集まって語り合えるサロンを2つ発足させた。
自らの経験を活かし、患者をつなぐ活動を開始
2020年1月に、通院先である鳥取大学医学部附属病院のがん相談支援センターの協力のもと、子育て世代が集まれる「さくらカフェ」を。同年7月には、勤務先の医療法人養和会の支援を受けて、40、50代が中心の患者サロン「あさがお」も発足。
「きっかけは、やはり私自身ががんになって子どものことを悩んだ時に、がん患者の団体『キャンサーペアレンツ』のオフ会に参加したことでした。そこで、同じように子どもを持つがん患者の方々の話を聞き、すごく助けになったんです。やはり、ピアサポート(仲間同士の支え合い)が必要だと強く感じました」
サロンの運営はすでに4年目。定期的に子育て・働く世代のがん患者と家族による交流会や、オンラインでの情報交換、会員からの寄稿記事などを掲載する会報誌の発行を行っている。
「体験された方のお話は、リアルで伝わりやすい。同病の仲間だからこそ分かり合える部分も多く、交流の場の存在は非常に大きいと感じています」
松本さん自身の治療は、告知から今年で7年。
「今も薬を飲みながら、仕事も続けています。がんイコール重病人とイメージしがちですが、がんと付き合いながら生活する人もたくさんいる。高血圧や糖尿病を薬でコントロールしながら生活されている方々と同じように、普通に捉えてもらえれば」
一方で、薬物療法を受けたがん仲間のなかには、薬が合わずに亡くなった方もいる。
「私が今こうやって過ごせているのは、役割があって生かされているんだなと思うようにしています。医療従事者であり、がん経験者だからこそできることを今後もやっていきたい。患者さん同士やその家族をつなぐかけ橋になれればいいなと思っています」
取材・文/當間優子