錦糸町の大人気「コの字酒場」の店主が紆余曲折しながら身につけた"攻めの姿勢"。「ラストオーダーこそ力を入れるんです」。

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2024年09月22日 11:40  週プレNEWS

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東京・錦糸町にある「燗酒とコの字カウンター 井のなか」の店主、工藤卓也さん(右)と筆者

連載【店主の休日】第6回 「燗酒とコの字カウンター 井のなか」工藤卓也さん

酒も肴も旨い名店の店主の行きつけで一杯やりながら、その半生をひもとくこの連載。名店は私たちにとって天国、ならばその店主はまさに天使。そんな天使がどんなところで骨休めをするのか、きっと名店に違いない......。

そんな天使の休日もとい店主の休日をご一緒したのは、錦糸町で18年にわたり愛されている名コの字酒場「井のなか」の店主・工藤卓也(くどう・たくや)さんだ。東京有数の激戦区である錦糸町で、18年にわたって愛される店を営む工藤さんの半生とは。

【写真】工藤さんの行きつけ「平井魚政」の鰻重

* * *

■「元力士の店って、よく間違われるんです」

異常な暑さがつづくこの夏。残暑になってもちっとも過ごしやすくならないなか、待ち合わせの店に、大汗をかきながら姿を現したのは、工藤卓也さんだ。圧倒的に充実した日本酒の品揃えとフレンチやイタリアンのエッセンスまで感じさせるイキな肴で大人気のコの字酒場「井のなか」の店主である。

「最近、元力士の店って、お客さんからよく間違われるんです」

たしかに工藤さん、初めて出会った頃にくらべると、ずいぶんと体が大きくなった気がする。といっても、角界なら小兵サイズではある。

「昔はだいぶ痩せてたんですよね」

そう言って見せてくれた写真はたしかにスリム。どうもモテたらしい。なにしろ、この店を開くまでの工藤さん、ほんとうにイケイケの人生だったのだ......。

さて、毎度、名店の店主の行きつけにご一緒してお話を聞くのがこの連載の骨子である。毎回、さすがに旨い店のご主人は、旨い店で呑んでることにことのほか感服するが、今回も、また最高の店だった。JR総武線、平井駅から徒歩で5分ばかり歩いたところにある、鰻の名店「平井魚政」である。この店、鰻はもちろん、そのほかの料理もすこぶる旨い。実はここ、私も大好きなのだ。もともと工藤さんに教えてもらったのだが、あんまり旨くて、いまでは勝手に寄らせてもらっている。

――ここは、美味しくて料理に集中しちゃって工藤さんの話を聞きそびれないように気をつけないといけませんねえ。

「うれしいなあ、そういうこと、言ってもらえると」

工藤さんと「平井魚政」の店主は長いつきあいだ。仲間が褒められたとき、工藤さんは自分のことのように喜ぶ。こういうところが、工藤さんの人柄全体を現しているような気がする。

1972年に千葉の鴨川で生まれた工藤さんは、地元で高校までを過ごし専門学校で簿記を学んだ。

「全然、飲食に興味はなかったんですよ」

照れ隠しでそういうことを言う人もいるが、工藤さんの目を見るとこれは本気だとわかる。実際、最初の就職先を選んだ動機が気持ちいいくらいストレートだ。

「で、その頃、地元に鴨川グランドホテルという会社があって、給料が高かったんで、そこに行こうと」

1993年。55年体制が崩壊した年だ。市場は不安定になっていたが、まだまだバブルの余韻がじゅうぶんに残っている時代だった。そんななか、当時、鴨川グランドホテルは本業のホテル業はもちろん、和食からタイ料理までさまざまな料理店を全国に出店し大成功していた。

「海外にも店を出していて、日本料理鴨川とか20店舗もありましたから」

――(私は高校時代マレーシアに暮らしていたのだが)日本料理鴨川のマレーシアの支店に我が家は、よく行ってました。

「ええ、そうだったんですか」

こういうこともあるのだ。

■「2回肝臓やられてました」

給料に惹かれて入社した鴨川グランドホテルで、工藤さんは最初に都内にあるタイ料理店に配属になった。これが工藤さんの飲食業界でのスタートになった。

「なんでタイ料理なのかなあ、なんて思いつつも、あってたんでしょうね、仕事がおもしろくなっちゃって」

それからずっと飲食畑を歩んだ工藤さんだが、なんと21歳で店長になってしまった。破竹の勢いだったのだ。

<工藤さんの行きつけ「平井魚政」は正統派の鰻屋だ。ただ、鰻以外の料理もすこぶる旨い。3種の前菜を持った一皿に、お造りに煮物。これが、もう酒を進ませる逸品揃い。蓮根の和え物はシャキシャキの歯触りと蓮根のやさしい甘みとがクセになる。香草をしのばせた卵焼きの爽快な香りとねっちりした歯触りもたまらない。刺身は流石の目利きと唸らせるし、煮物は出汁のふくませ加減が至妙。旨い店「井のなか」の肴もちょっと彷彿させる>

出世街道を駆け上がっていた工藤さんだったが、出る杭は打たれるのが日本社会なのであった。新たな配属先のイタリアンではいろいろと人間関係に悩まされた。

「居酒屋部門ができるという話があって、今度はそこかな、と思っていたら、なぜかイタリアンに配属になって。そこに前からいた人たちからしたら僕はよそ者なんですよね。ほどなくして、なんていうんでしょうね、僕派とそうじゃない派、みたいなことになっちゃったんですね。外部から来たコンサル役の人は僕じゃない派で、「お前なんか最低だ」なんて言われる始末で。たしかに、勢いづいていたけれど、ちゃんと売り上げは上げましたしね。ただ、まあ、人に働いてもらう上での気遣いみたいなところは、まあ、若かったですね」

自戒をこめつつふりかえる工藤さん。今の彼の持つ雰囲気からは想像がつかないが、当時は世の中全体がイケイケだった、なにしろセンター街にチーマーがあふれていた時代である。そんなこともあったのかもしれない。ちなみに、当時は150坪の店で年間3億の売り上げを出していたという。辣腕だ。

そんな工藤さんを周りが放っておくわけもなく、同じ会社から独立するという上司に誘われた。そして転職。今度は六本木にある店だった。

「そこでも最初は大変でした。お通しに大根の葉っぱしか出さないような店だったんですが、僕は和食のちゃんとした料理で日本酒が呑める、そういう店を目指したんですね」

すでにその頃には「日本酒好きを自覚していた」という工藤さん、当時隆盛を誇っていた日本酒の店にも足繁く通った。ちなみに、

「酒の勉強をしているうちに気づいたら2回、肝臓やられてました」

という。回復してくれて本当によかった。熱中すると脇目もふらずに邁進するタイプなのだ。

そんな猪突猛進の工藤さんだけに、新たに任された店も順調に伸びていった。そして、サラリーマンとして最後に任された店が茅場町にあった居酒屋だった。100人規模の大きな店ながら、銘柄ごとに燗独鈷(持ち運びできる燗酒用の器具)できちんと燗をつけるということで、日本酒好きには知られた店だった。そこで多くの日本酒好きと知り合った工藤さんだったが、また組織の人事上のあれこれがあって、その店を辞めた。2004年のことだった。

<最初の三品ですっかり食い気の塊になったところで、白焼きが登場する。「平井魚政」の白焼きは、鰻の脂っけが実にいい具合に残しながら仕上げてある。ふわふわあっさりとしているようで、口中でじわりと鰻のコクたっぷりの脂を感じる。こんな白焼きそうそうお目にかかれるものではない>

■「僕の顔がカエルに似てるから井のなか」

店をやめた工藤さん、理想の居酒屋を開こうと奔走をはじめた......のだが、

「なんだか、ちょっとこわくなっちゃったんですよ」

武者ぶるいがそのまま震えになってしまったのだろうか。サラリーマン時代、香車のように突き進む仕事ぶりだったのが、突然変わってしまった。何をしたらいいのか、急にわからなくなってしまったらしい。猪突猛進型の人ほど独立する時にそんな葛藤のあるのかもしれない。私みたいに、勤めているときから意気地なくぬるぬるしていると、フリーになるときもぬるぬるとなんとなく独立してしまう。

「やっぱり企業が出す店は、駅前とか人の流れの多い良い場所にあったり、仕入れもシステマチックだったりして、一人で営む店のリスクとは比較にならないって、実感し始めて。自分は守られてたな、と思うようになってしまったんですよね」

それからの工藤さんは、

「迷走してました」

と、ふりかえる。知り合いの店を手伝いに行ったり、鰻屋で少し働いてみたり、尊敬する知人の食通の付き人のようなこともした。とにかく、あれこれやった。酒蔵へ行って酒造りの見聞を広めたり、農家へ足を運んだり......。決意が固まるまで2年近くを要したという。大丈夫、私なんか30年迷走してます、と言ったが、そこは流された。

「必要な時間だったのかなと思います。ビビって躊躇(ちゅうちょ)している間も、いろんな人に教えてもらえる機会にめぐまれて。ようやく、よし店を開こうって声に出せたんですよね」

こうして2006年3月31日に「井のなか」は開業した。開店の日付はおつれあいの誕生日であるとともに、前の会社を辞めた日でもある。そこに並々ならぬ決意の深さ、感じるではないか。それに開業日をおつれあいの誕生日にしておけば、うっかり忘れるなんて恐ろしいミスも絶対にないだろう。素晴らしい。

店名はというと、旧知の漫画原作者につけてもらった。

「僕の顔がカエルに似てるから井のなか、っていう。良い名前ですよねえ」

そう聞いて、私は、先日、年老いたマルチーズに似ていると言われたことを思い出した。

■いきなり客足が途絶えた

それからの「井のなか」は破竹の勢いだった。開店してから3年半、毎日満席が続いたのだ。もちろん努力は怠らなかった。それまでホールと経営畑の人だったから、料理も並行して学んだ。それも徹底的にしごいてもらった。経営者が雇っている料理人に料理を教わる。ちょっと変わった関係であった。

「ある方は、銀座で料理長をやる話を断ってまで来てくださったんですよ。でも、そりゃあ、厳しかったです。あるときなんか、素材がダメだって、冷蔵庫のなかのもの全部捨てさせられたこともありました。ただ、ほんとうに皆さんよく教えてくださったんですよ。市場に同行してもらって仕入れ方まで手取り足取り」

修行しつつ経営する。いわゆるプレイングマネージャーというのは、すでにプレーヤーとして完成している人がマネージメントをすることだが、工藤さんのケースは、野球未経験の監督が、監督として指示を出しながら、選手になるためにチームメイトに野球を習うようなものである。複雑だ。そんな毎日を、工藤さんは店長として必死に努力し、「井のなか」は瞬く間に名店として知られる存在になった。

ところが、である。

<ここで大きな生牡蠣が卓上におかれた。大ぶりながら、歯触りはむっちりとしていて、クリーミー。端々まで良き磯の香りに満ちていている。そして、ガブリガブリと噛むと、牡蠣の、海の旨いものをすべて詰め込んだような出汁感たっぷりの汁気があふれる。こんな牡蠣みたいな魅力のある人間になりたい......。こういう素材を仕入れる腕前「平井魚政」の大将、流石である>

順風満帆だった「井のなか」だったが、ある夜突然異変がおとずれたという。

「不思議なんですよ。いきなり客足が途絶えたんです。ほんとうに、ふっつりと。流行って、こういうふうに終わるんだ、って思いました。取材の申し込みとかもパタっとなくなるんですよ。怖いですよねえ」

■「良いものをもっと」

人気ってほんとうにわからない、と以前コンサートで大物歌手がMCで発言していた。店の人気もまたしかり。

原因は複合的だったと工藤さんは分析する。同様の形態の店が近隣に開いたり(あと、店主がイケメンの店が開いたり、と工藤さんは笑ってつけくわえた)、他店との比較で価格が客にとって高く映るようになったり......。でも、工藤さんは一番の原因は、

「僕がね、ちょっと調子にのってたんですよね。たしかに工藤にお客さんがついていた部分があったと思うんです。それで、僕が調子にのったら、お客さんは離れていっちゃったわけで。つまり、いちばん大事な、お店そのものにお客さんが、ちゃんとついてくれてなかったんですよね」

それから工藤さんは、新たに店長職のスタッフを置き、自ら店長をやって、前に前に出ていくことをやめた。お酒も1合売りをやめて、たくさんの種類を楽しめるように小さな量で提供するようにした。もちろんそのほうが手間も酒の管理も大変になるが、

「そういうところでちゃんとしなくちゃ店に客はつかないんですよね」

しかも、客足が衰え売り上げが下がっている状況ながら、敢えて

「どんどんお酒も仕入れたんです。酒屋さんにじゃんじゃん注文して良い酒をどっと仕入れて」。

さらには、料理の材料も、

「良いものをもっと、という姿勢で攻めてんですよね」。

やっぱり守勢に入ってはだめなのだ。私も日頃、攻めの姿勢こと大事と思って、酔っ払っているのを自覚しながらもう一杯やってしまう。これがいけない......。

もともと旨くて良い酒が呑める店だったが、こうなると負けるわけがない。店は再び活況を呈し、それまで以上に繁盛するようになった。だが、コロナ禍が、また状況を変えた。

「2020年に、開業して初めて、ひとりもお客さんが来ないことがあったんです」

初めての、それも想像を遥かに越える状況だった。たしかに、あのわいわいといつも賑やかな「井のなか」に客が一人もいない状況なんてまったく想像できない。

■店を営んでいて絶対に守っていること

そんなとき、工藤さんは店の馴染客たちのふるまいから、なにかをつかんだ、という。

一人は大相撲の力士、高安関だった。

「高安関がお客さんとして来てくれるようになって、いろいろ話す機会にめぐまれたんですが、あの人は、なんでも他人(ひと)のためにやれる人なんですよ。周りの人に怒ったりしない、なにかあっても、誰かのせいになんかしない。これだよなあ、って」

そしてもう一方は落語の笑福亭鶴光師匠。

「師匠もまた、誰かのためにする、っていう姿勢をいつも見せてくれる人なんです。サービス精神とさり気ない心配りに、ああ、僕もちゃんとしなくちゃって思うんです。直接的な言葉でなにか教わってるわけじゃないんですけど、勝手に、僕にとっての理想の上司だなって思って、お二人はじめ尊敬する人たちの写真を店に貼りまくっているんです。この方々に失礼があっちゃいけない、って思えるように」

それで、と工藤さんは今、店を営んでいて絶対に守っていることを教えてくれた。

「ラストオーダーこそ力を入れるって思ってるんです」

――疲れてても?

「だからこそ、なんですよね。ラストオーダーのとき、そりゃあくたびれているんですけど、それに甘えないというか。その日、一番っていう出来、盛りでラストオーダーにこたえないと、お客さんにとって、食べたいものを食べることに時間帯なんて変わりないし、むしろ、最後に注文したものこそ、いちばん印象に残る。ラストオーダーだからって疲れにかまけて手を抜いてるようじゃダメなんですよ。それで、その日の仕事が決まると思ってます」

「井のなか」の店内にはいろんな写真が飾られている。工藤さんが尊敬する人たちの顔がいっぱいある。その顔に恥じぬよう、工藤さんは、最後の一品まで妥協せずに提供している、わけだ。

<いよいよ「鰻重」がやって来た。ここの鰻は、関東スタイルの蒲焼き。ただ、蒸し加減も焼き加減も絶妙なのだ。ふわふわ、とは鰻の蒲焼の歯触りで巷間でよく耳にする表現だけれど、そのふわふわと小脂が一体化している。だから、ただ柔らかいのではなく、ちゃんと歯触りがあるふわふわ。そして微かな焦げ目でエッジが立った焼き加減は、ちょうどタレがジワリと染み込むと最高の歯触りを生む。香ばしさと汁気たっぷりで小脂の甘さが三位一体となって舌を楽しませる。もちろん酒にもぴったり。この店では鰻重書いて幸福と読む、と言っていいだろう>

コロナの悪影響はそれなりに長引いたものの(原作を担当したドラマ『今夜はコの字で』のロケ地巡礼のお客さんなどの効果もあった、と工藤さんは言う。嬉しいかぎり。)徐々に客足は盛り返し、再び店は毎晩、大勢のお客さんがつめかけている。

「ほんとに、人に恵まれてきたな、って思いますね。もう、それにつきるって言ってもいいぐらいですよ」

こう語る工藤さんの朗らかな顔。これは人に恵まれますよ、と言ったら、

「あ、もちろんジャンプさんも」

と、くる。この茶目っ気も、たまらない。この店は、繁盛するわけだ。人についていた客を、今度は店につかせるようにした工藤さん。いま、店と工藤さんは、一心同体になっている。これは盤石だ。

文/加藤ジャンプ

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