NBA伝説の名選手:ドウェイン・ウェイド 「閃光の如く頂点へ駆け上がったヒートの象徴」

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2024年09月24日 07:30  webスポルティーバ

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NBAレジェンズ連載17:ドウェイン・ウェイド

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第17回は、強豪マイアミ・ヒートを象徴する存在となったドウェイン・ウェイドを紹介する。

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【守備が評価されて大学へ】

 NBAのシューティングガード(SG)は、マイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)、コービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ)といったスーパースターたちがプレーしてきた花形ポジションのひとつ。

 今回お届けするドウェイン・ウェイド(元マイアミ・ヒートほか)は、ブルズで1990年代に2度の3連覇を達成したジョーダンに憧れ、SGとして歴代屈指の実績を残してきた選手だ。

 ウェイドは1982年1月17日にイリノイ州シカゴ南部で生誕。父ドウェイン・シニアと母ジョリンダは彼が生まれて4カ月で離婚し、母が親権を引き取った。だがその母は薬物中毒者で、ウェイドはのちに「もしあのまま(母と)一緒にいたら、ドラッグを売ってギャングになっていたかもしれない」と明かすほど、危険な環境にいた。

 その後、姉のトラギルにも助けられ、ウェイドは9歳の時に父と暮らし始めたことで人生が好転。5歳から始めたバスケットボールも、9歳の時にブルズが初優勝(1991年)したこともあって本格的に打ち込んでいく。

 同州オークローンのリチャーズ高校時代のウェイドは、全米から注目を浴びるような選手ではなかった。だが着実に腕を磨き、マーケット大学のコーチ陣からはリバウンドやスティールなどディフェンス面で高く評価され、入学することになる。

 大学1年次は学業面の成績がNCAA規定の水準未満だったため、公式戦出場こそできなかったものの、プレーした2シーズンはチームのトップスコアラーとなり、3年次に迎えた2003年のNCAAトーナメント(全米大学選手権)ではチームをファイナル4(準決勝)へ導く立役者に。ケンタッキー大学とのエリート8(準々決勝)では、圧巻のトリプルダブル(29得点、11リバウンド、11アシスト)に4ブロックの大暴れで見せ場を作った。

 2003年のNBAドラフトへアーリーエントリーしたウェイドは、ドラフト前のワークアウトに成功したこともあって、本人も含めて1巡目全体7位指名権を保持していたホームチームのブルズから指名されると本人も含めて予想されていたが、5位でヒートから指名された。

 ガードとしては屈強な肉体(193cm・100kg)を誇るウェイドは、2003-04シーズンに平均16.2得点、4.0リバウンド、4.5アシスト、1.4スティールを残してオールルーキーファーストチーム入り。プレーオフではニューオーリンズ・ホーネッツ(現ペリカンズ)とのシリーズ初戦で決勝弾のフローターをお見舞いするなど、ルーキーイヤーから強烈なインパクトを残した。

【シャックとのコンビで自身初の優勝】

 ウェイドはカンファレンス準決勝敗退で1年目を終えたのだが、2004年夏にヒートが大型トレードを断行。当時リーグ最強センターのシャキール・オニール(元レイカーズほか)を獲得し、ウェイドとの超強力デュオ誕生で優勝候補に躍り出る。

 2005年のプレーオフこそカンファレンス決勝最終第7戦までもつれる展開の末にデトロイト・ピストンズに3勝4敗で敗れたものの、ヒートは2大スターの周囲にベテラン陣を補強し、翌2006年には球団史上初のNBAファイナルまで駆け上がった。

 0勝2敗スタートとなったダラス・マーベリックスとの頂上決戦。シャックから"フラッシュ"というニックネームを授けられたウェイドは、第3戦からすべての試合で36得点以上を奪うなどして爆発。チームを4連勝へと導いて、初のリーグ制覇を達成した。シャックが発破をかけたこともあり、当時3年目のガードはシリーズ平均34.7得点、7.8リバウンド、2.7スティールでファイナルMVPにも輝いた。

「やっと負けることから解放された気がした。ファイナル4、高校でも、僕はずっと勝てずにいた。ついにそのハードルを越えることができたんだ。人生の新たな章が幕を開けたのさ」

 ウェイドはバスケットボールキャリアで初の頂点に立った。もっとも、ヒートは2連覇できず、徐々に覇権争いからも遠ざかっていた。その間、ウェイドはケガにも見舞われたが、2008年の北京オリンピックで完全復活し、"個人成績"だけで言えば全盛時を迎えていた。

 するとチームは2010年夏に、ドラフト同期でリーグ有数の実力者としての地位を確立していたレブロン・ジェームス(現レイカーズ)とクリス・ボッシュ(元トロント・ラプターズほか)を獲得し、ウェイドとの"スリーキングス"を形成。ヒートは2011年から2014年にかけて4年連続でファイナル進出を飾り、2012、2013年に球団史上初の2連覇を達成した。

 その後、ウェイドは故郷のブルズへ移籍して2016-17シーズンをプレーすると、翌シーズンはクリーブランド・キャバリアーズでレブロンと再び共闘。2018年2月にトレードで古巣ヒートへ帰還し、2019年4月に現役を引退した。

 3度の優勝に加え、オールスターに13度、オールNBAチームに8度、オールディフェンシブチームにも3度選ばれた男の背番号3は、ヒートの永久欠番となり、さらに彼は2021年にNBAの75周年記念チームに選出され、2023年には文句なしでバスケットボール殿堂入りと、SGとして歴代屈指の実績を残した。

【さまざま役割をこなし偉大な選手に】

 ウェイドという選手は、ビッグマンが相手でも当たり負けしない強靭なフィジカルと超人的なクイックネスを兼備したドライブで相手守備陣を切り裂き、爆発的な跳躍力を駆使して豪快なダンクを連発するイメージが強いが、幅広いプレーが持ち味でもあった。

 キャリアを重ねるごとに磨き上げたジャンパー(シュート)や軽快なユーロステップなどで加点したほか、アグレッシブな姿勢を貫いて獲得してきたフリースローで点を繋ぎ、勝敗を左右する重要なショットも数多く決めてきた。

 そして、忘れてはならないのがブロックショット。上背こそなかったものの、絶妙なタイミングで跳び上がり、相手のショットを何度も仕留めてきたウェイドは、レギュラーシーズンとプレーオフを合わせて1060本ものブロックショットをマーク。ジョーダンの計1051本を抜き、ガードポジションの選手としてのNBA歴代最多ブロック記録を樹立した。

 NBAでスーパースターとなってリーグを席巻しつつ、その後は得点源やスターター、シックスマン、メンターなど役割を変えながらも成功を収めてきたウェイドは、キャリアをこう総括している。

「バスケットボールキャリアで、僕は実にさまざまな役割をこなしてきた。だからこそ、自分は歴代最高の選手のひとりなんだと見ている。いろんな形で偉大な存在になれるんだと示してきた。僕のゲームは変わり、進化を続けてきた」

 現役引退後も、ウェイドはビジネスマンとして活躍中。2021年にはユタ・ジャズのオーナーシップグループに加わり、現在はポッドキャスト番組もこなし、今夏のパリオリンピックではアメリカ代表のコメンテーターとして『NBC Sports』のチームに参加していた。

 ヒートは今年10月27日にホームアリーナのカセヤ・センターの前で、"球団の象徴"ウェイドの銅像をお披露目する。引退から5年が経過しようと、ウェイドのレガシー(ストーリー)はこれからも続いていく。

【Profile】ドウェイン・ウェイド(Dwyane Wade)/1982年1月17日生まれ、アメリカ・イリノイ州出身。2003年NBAドラフト1巡目5位指名
●NBA所属歴:マイアミ・ヒート(2003-04〜2015-16)―シカゴ・ブルズ(2016-17)―クリーブランド・キャバリアーズ(2017-18)―マイアミ・ヒート(2017-18途〜2018-19)
●NBA王座3回(2006、12、13)/ファイナルMVP1回(2006)/オールNBAファーストチーム2回(2009、10)/オールスターMVP1回(2010)
●五輪代表歴:2004年アテネ五輪(3位)、2008年北京五輪(優勝)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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