門田博光も「700本は打てる」と惚れ込んだ逸材 T−岡田は本塁打王以降、何に苦しんだのか「じつはあの年...」

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2024年09月24日 10:10  webスポルティーバ

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T−岡田インタビュー(後編)

前編:T−岡田が振り返る栄光と苦悩の19年はこちら>>

 今シーズン限りで現役を引退するオリックスのT−岡田。球界屈指の長距離砲として、プロ5年目の2010年は22歳にして本塁打王に輝くなど、岡田の未来は希望に満ちていた。だが、それ以降は思うようなバッティングを発揮できず、ここまで(9月23日現在)放った通算本塁打は204本。岡田の代名詞でもあったホームランの数について、自身はどう感じているのか。

【ノーステップ打法との決別】

「250本はいきたかったですね」

 岡田らしい控えめに思える答えに、即こう返した。

「500本は打ってほしかった」

 すると岡田は苦笑いを浮かべたが、決してオーバーな数字だとは思っていない。

 事実、2012年の暮れに岡田と対談した通算567本塁打の門田博光氏(故人)は、「ここから本気になったら700本は打てる」と大真面目な顔で本人に伝えていた。

 門田氏は、岡田が一軍で7本塁打を放ち、開花の足がかりをつかんだ2009年のシーズン終盤、テレビに映る岡田にひと目ぼれ。兵庫の山間にあった自宅から京セラドームまで車を走らせ、当時の指揮官だった大石大二郎監督に「55番(T−岡田)をオレに見させてくれ」と直訴。結局、実現はしなかったが、それだけの資質を感じていた。

 そしてこの翌年、岡田は33本塁打を放ち、22歳にして本塁打王を獲得。500本はおろか、門田氏が言った700本も決して夢の数字とは思わなかった。

 今もネット上で見ることができるが、2010年に記録した33本のホームラン映像には惚れ惚れさせられる。外の球は力強く踏み込みセンターからレフトへ返し、インコースは鋭いボディーターンでライトへ。さらに、落ちる系のボールは片手で拾い、高めの強いストレートは腕を畳んで叩く。どのコース、どの球種が来ても、打球を遠くに飛ばせるツボを持っていた。

 当時はスタンスを広くとり、重心を落としたノーステップ打法。しかし、本塁打王を獲ったわずか2年後、このフォームと決別。過去の取材のなかで尋ねた時には、「しっくりいかなくなって......」「下半身の負担が大きい」とその理由を挙げていたが、今あらためて決別の理由を聞いてみた。

「ホームラン王を獲った翌年、徐々にしっくりいかなくなったのはあります。そもそもバッティングって完成形がないじゃないですか。その年その年、その日その日で体の状態や感覚は違うもの。そのなかで相手投手にアジャストしていかないといけないわけですから、変化することは当然だと思いますし、フォームを変えることも変化のなかのひとつ。だから、ノーステップ打法をやめることに躊躇はなかったです」

 たしかに33本打ったシーズンでも、腕の使い方、スタンスの幅など、細かな変化はあった。

 それに「下半身の負担」もたしかに事実で、岡田ほどの大型選手となればなおのこと。2010年にしても、シーズン終盤にハムストリングを肉離れ。シーズン33本目は、故障を押して出場した先に放った代打逆転満塁本塁打だった。劇的な一発のあと、歩くようにベースを一周する岡田の痛々しい姿は、今もはっきり覚えている。

「体への負担が大きいのと、常に進化したいという気持ちがありました。だから、僕のなかでノーステップ打法は一時的なもので、もともとずっとやるとは思っていなかった。なにより2011年は満足のいく成績を残したわけじゃなく、前の年と比べればまったく物足りなかった。自分のなかで『もっとよくするために』と考えた時、フォームを変えようと。そこに迷いはなかったです」

【タイトル奪取の翌年に統一球導入】

 この時期を振り返ると、プロ野球ではダルビッシュ有(当時日本ハム/現・パドレス)を筆頭に、田中将大(楽天)と言ったパ・リーグの投手のレベルが明確に上がったタイミングであった。さらに、2011年は"統一球問題"に揺れた年。いわゆる飛ばない"統一球"の導入により、とくに長距離砲の打者は苦しんだ。もしボールが変わっていなければ、どうなっていたのだろう。この話題に、岡田は短く答えた。

「あの時、打ったのは西武の中村(剛也)さんだけでしたよね」
※中村は両リーグ唯一の40本超えとなる48本塁打をマーク

 中村以外の打者は大きく本塁打数を減らし、打球の飛びが悪くなったことは明らかだった。ただ成績を残した選手がいる以上、そこを理由にはできない。とはいえ、本塁打王を獲得した翌年、「さあここから」という時のボールの変更。因果な巡り合わせを感じずにはいられなかった。

 さらに岡田が「じつはあの年......」と思い出したように話をつなげてきたのは、バットの話題だった。

「あの年、バットの規定も変わったんです。直径の最大値がわずかですけど、狭くなった。基本、規定ギリギリの太いバットを使う人はほとんどいないんですけど、僕はタフィ(ローズ)さんのモデルを使用していて、梅雨の時期に水分を含むと危ないかも......というのがわかったんです。それでわずかですがバットを細くした。もちろん、つくってくれる人はバランスが変わらないようにやってくれたのですが、若干ですが感じが変わって。2010年のモノと本当に微妙ですけど、感覚が変わったのはありました」

 本塁打王の翌年に、ボールとバットの規定が変わった。どちらも変わらずシーズンを迎えていたら、まったく違う未来が待っていたのか。これに対し、岡田は短く答えた。

「"たられば"です」

 総じて見れば、19年間は苦しいシーズンの連続だった。そのなかで打撃と向き合いながら、中心選手となってからは、低迷続きだったオリックスをその姿勢で支えた。

【現役最後の打席は...】

 そんな岡田にとって、2021年はこの先も忘れられないシーズンとして深く記憶に残っていくだろう。会見でも思い出の一本として挙げた、天王山のロッテ戦での9回二死から放った逆転3ラン。この一打でチームは25年ぶりの優勝に大きく前進。「T−岡田はまだまだこれから」と、見る者に期待を抱かせた一打だった。

 だが翌年から出場が大きく減り、本塁打数も22年は1本、23年は0本。

 あらためて、ここまでの通算成績を見てみたい。

1362試合/1192安打/204本塁打/715打点/444四球/1183三振

 数字の感じ方はそれぞれだろうが、ファンが試合のなかでため息をつく場面も少なくなかっただろう。それでも凡打の次の打席で、より大きな声援を送られるのが岡田という選手なのだ。数字だけではない、球場を包む大歓声こそ岡田に対するファンの評価だったのだろう。

 いよいよ迫る、別れの時。最後にどんなバッティングをファンに見せたいかと聞くと、岡田は淡々とこう答えた。

「もともとブンブン振るタイプじゃないので、最後だからってそういうのは違うと思いますし......僕らしいバッティング、僕らしい当たりを見せられたら、ですね」

 205本目のホームランを、などと安易に口にするような男ではない。どこまでも岡田らしく、最後もチームのための一打を。

 2006年8月10日、京セラドームでのプロ初打席(西武戦/松永浩典に空振り三振)から数えて、5216回目の戦いが終われば、私にとって岡田の取材もひと区切りとなる。

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  • 250言うてる時点で長距離砲ちゃうやん(笑)アホやんか(笑)
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