「水ダウ」と「新宿野戦病院」。新型コロナパンデミックの「ナラティブ」の描き方【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】

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2024年09月25日 07:40  週プレNEWS

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マスク、アルコール消毒、赤外線検温計、ソーシャルディスタンス……。「コロナ対策」を題材にしたバラエティとテレビドラマについて、「新型コロナウイルス学者」が考察する

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第67話

新型コロナパンデミックを題材にした、バラエティ「水曜日のダウンタウン」とドラマ「新宿野戦病院」の番組内容をめぐって、SNSを中心に賛否両論が巻き起こった。筆者のトピックのひとつでもある「なぜ感染症には、地震や津波のような『教訓』がないのか?」を軸に、これらふたつの番組について考えてみた。

* * *

■「感染症のナラティブ」とは

――地震が起きたら机の下に隠れよう、津波が来たら高台に逃げよう。

これらは、日本に住んでいたら子どもでも知っている、地震や津波が発生したときの対処法である。このような対処法は、地震や津波のような自然災害の悲惨さを目の当たりにし、そこに学んだ「教訓」に基づいている。

大きな災害が発生した日には、追悼式典が毎年開催される。同じような被害を繰り返すことがないよう、その悲惨さを語り継ぐことが目的のひとつである。このような機会は、災害の悲惨さを「ナラティブ(物語)」として語り継ぐことで、「教訓」を後世に残す役割を果たしている。

しかし感染症には、「災害が発生した日」のような節目となる日がない。そのため、追悼式典のような、その悲惨さを語り継ぐ機会がない。感染症は、その被害の程度が地域や人によってまちまちであるため、多くの人が共感するような「ナラティブ」が生まれづらい。そのようなことを、過去にこの連載コラムで言及したことがある(26話)。

「感染症のナラティブ」についての考察、というのは、私のウイルス学者としてのサイドワークというかライフワークというか、折々に考えたいトピックのひとつになっている。つまりまとめると、地震や津波の場合には、机の下に隠れる、高台に逃げる、というような「教訓」がある。しかし感染症には、そのような「教訓」がない。感染症の「教訓」を残すために必要な「ナラティブ」とはいったいなにか? ということになる。

夏休みも終わり、2学期が始まって間もない頃、ふたつのテレビ番組、バラエティ「水曜日のダウンタウン(水ダウ)」とドラマ「新宿野戦病院」が、新型コロナパンデミックを題材にしていた。番組内容をめぐってSNSはバズり、賛否両論が巻き起こった。今回のコラムでは、「感染症のナラティブ」という観点から、このふたつの番組についてちょっと考えてみた。

■「水ダウ」の例

まずは「水ダウ」。この番組では、「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場があっても従わざるを得ない説」と題して、ドッキリの仕掛け人の番組スタッフとタレントが、マスクにフェイスガード、検温や消毒、アクリル板といった過剰な「コロナ対策」を意図的に行ない、仕掛けられたタレントがそれに戸惑う様子が映し出された。

しかし、言うまでもなくこれらの「コロナ対策」の大半は、現在も医療従事者の間で行なわれている行為である。最近でこそ、そのようなシーンを大手既成メディアで目にする機会はほとんどなくなった。しかしそれは、新型コロナに関する報道自体がほとんどなくなったからであって、これらの「コロナ対策」が過去の遺物となったことを意味するものではない。

連載コラムの26話でも言及したことがあるが、感染症も地震や津波と同じ、自然災害のひとつである。それにもかかわらず、なぜこうしたドッキリがまかり通ってしまうのだろうか?

それはおそらく、新型コロナパンデミックという災厄について、多くの人が思いをひとつにするような「ナラティブ」が生まれづらいために、きちんとした「教訓」が形成されていないからではないか? と私は考える。人々の間でそういう認識がないために、この番組の制作者も、「それはドッキリとして成立しない」「それは不謹慎では?」という考えに至らなかったのではないだろうか。

それはちょうど、まだ道徳がきちんと身についていない子どもが、教室の床を一生懸命水拭きしている子どもや、手をあげて横断歩道を渡る子どもを笑いの対象にすることに似ている。そういう意味においてこの番組は、感染症の「教訓」の欠如による被害者といえるのかもしれない。

■「新宿野戦病院」の例

一方の、テレビドラマ「新宿野戦病院」である。このドラマは、新型コロナを題材にしているのではなく、「ルミナウイルス」という架空のウイルスによるパンデミックを、ドラマ後半の10話と最終話で描いているのだが、新型コロナパンデミックのオマージュであることは明らかである。2020年の始め、第1波の頃の記憶を呼び起こすようなシーンが散見された。

配られたマスク、なんとかキャンペーン、路上飲み、20時までの時短営業、デタラメな数値を示す赤外線検温計などなど、新型コロナパンデミックの中で誰もが一度は思ったことがあるような出来事を、クスッと笑えるシーンに昇華していた。

そして最終回では、このドラマの主役である小池栄子が、次のようなセリフを発していた。「ウイルスを運んだのは人間。でも、犯人探しには意味がない。特定の誰かを悪者にしてはいけない」。

――ここに、このドラマの脚本を務めた宮藤官九郎の、コロナ禍に対するメッセージが込められていた。つまりこれこそが、パンデミックの「教訓」。言い換えれば、このドラマそのものが、新型コロナパンデミックの記憶をつむぐ「ナラティブ」として機能していたように私には映った。

■どうやって「感染症の記憶」をフィクションに落とし込むか?

このテレビドラマを見て、感染症の場合には、フィクション(創作物)の「ナラティブ」を通して「教訓」を生む、という方法があることに気づいた。そもそもにして、小説『復活の日』(小松左京・著)や漫画『20世紀少年』(浦沢直樹・作)などから明らかなように、「パンデミック」や「感染症」というトピックは、フィクションと相性が良いのである。

新型コロナを題材にするにしても、それの何をどう扱うかはセンス次第。新型コロナパンデミックという出来事そのものがアンタッチャブルなのではなく、それをどう扱っていくのかが、これからメディアに問われていくところなのだと私は感じた。

多くの人たちの思いをひとつにして、新型コロナパンデミックの記憶をつむぐ「ナラティブ」として機能し、後世に残る「教訓」を生み出す――。これからも、そんなフィクションが生まれることを心待ちにしたいと思う。

文/佐藤 佳 イラスト/PIXTA

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