江川卓と高校時代に対戦した篠塚和典はショックを受けた「この球を打たないとプロには行けない」

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2024年09月27日 17:31  webスポルティーバ

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連載 怪物・江川卓伝〜安打製造機・篠塚和典を育てた2本のヒット(前編)
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 篠塚和典(1992年途中まで登録名は篠塚利夫)に名球会入りを期待していたと告げると、即答でこう返ってきた。

「オレも2000本打てると思っていましたよ」

 やっぱりそうでなくては、と妙に納得したものだ。嫌味でもなんでもなく、これこそが天賦の才を持つ所以だと思った。

 日本人はすごい人を見ると、すぐに「天才」と騒ぎ立てる。だが世の中、本当の意味での天才などめったに存在しない。唯一無二の存在だからこそ、天才の称号に価値があるのだ。それは「怪物」だって同じだ。

 日本人アスリートの歴史において「怪物」と呼んでいいのは、ジャンボ鶴田と江川卓だけではないかと思う。天才も同様で、サッカーなら小野伸二、野球ならイチロー。怪物はいつもふてぶてしく、天才は常に涼しい顔をしている。長嶋茂雄、王貞治、落合博満、前田智徳、大谷翔平といった面々は、"天才"や"怪物"とはまた別のカテゴリーに属している。それは篠塚も同じで、天才というよりもアーチスト。打撃、守備ともに柔軟で華麗な芸術家だった。

 打っては巧みなバットコントロールで狙いすましたかのように野手の間を抜き、守っては柔らかい身のこなしと華麗なグラブ捌きで好捕を連発。あのイチローも篠塚に憧れ、篠塚モデルのバットを使っていたのは有名な話だ。1980年代の篠塚は紛れもなく巨人のスター選手だった。

【高校入学直後に江川から安打】

 江川は、高校時代の篠塚のことをはっきりと覚えている。作新学院3年の江川が、銚子商に入学したばかりの篠塚にヒットを2本打たれたことで、「ほぉ〜」と感心したからだ。そもそも高校時代の江川は、1試合に打たれるヒットは1本か2本程度。それが入学したての1年生に打たれたものだから、江川の記憶のなかに強く残っているのだ。

 篠塚にとって江川との出会いは、ある意味必然だったと言える。篠塚が回想する。

「中学3年の春に、銚子市営球場で作新の江川さんを見ました。授業があったけど、中学の野球部の監督が『見てこい』って言うので、みんなで行きました。もうその頃は、銚子商業に行くと決めていました。球場に入ってグラウンドを見渡すと、江川さんはどこにいるのかすぐにわかる。ほかの選手と違う存在感というかオーラがありました。ただただ『すげーな』ですよ」

 作新学院時代の江川は、183センチの身長と"馬尻"と呼ばれた大きい尻が目立ち、高校生のなかにひとり大人が混じっている感じだった。かつて横浜高の監督を務めていた渡辺元智は、甲子園でいろいろな選手を見てきたが、そのなかで別格だった球児はふたりいたと話してくれたことがある。それが江川と、星稜の松井秀喜だった。まさに高校生離れした圧倒的な雰囲気を持っていたという。

 江川の高校時代について、篠塚が半世紀前のことを感慨深く話す。

「高校1年の春に山梨で開催された関東大会準々決勝で作新と銚子商が対戦し、初めて江川さんの球を打席で見た時はショックでした。『こんな速いボールがあるのか......』っていう感覚でしたね」

 それでも篠塚は2打席目で、センター前に落ちるヒットを放っている。1年生で江川の球をヒットにしたのは、篠塚が初めてだった。江川は篠塚とは理解していないまでも、スタメンに1年生がいることは知っていた。

 篠塚にとって江川からの初ヒットは、運よくポトリと外野の前に落ちただけで、次に放ったヒットこそが正真正銘の当たりだと思っている。

「関東大会の時は、自分のタイミングで打とうとすると『ズドーン』と来たので、めちゃくちゃ詰まりました。この速い球を打たないと、プロには行けないなと思いましたね」

 江川と篠塚の2度目の対戦は、作新学院のグラウンドで行なわれた練習試合。ダブルヘッダーの2試合目に江川は先発した。その試合で篠塚は見事にセンター前にヒットを放っている。尋常じゃない速さのストレートへのタイミングの取り方を、バッターボックス内で修正してアジャストしたのだ。

 当時、高校球界の超名門だった銚子商に入学して、すぐにレギュラーを獲った篠塚。それだけでもすごいことなのに、江川に対して打席内で修正してヒットを放つなど、すでに才能の片鱗を見せつけていたわけだ。

【江川卓の入団時に一軍定着】

 高校2年の秋から肋膜炎で半年間休んでいたにも関わらず、長嶋茂雄が首脳陣の反対を押し切ってドラフト1位で指名したのも頷ける。

 巨人入団時はまだまだ体の線は細かったが、3年間みっちりファームで鍛えられ、1979年から一軍に定着した。その79年は江川が巨人に入団した年でもある。

「法政大時代の江川さんをテレビで見ましたけど、プロに来るんだったらあまり投げないほうがいいなと思っていました。あれだけの速い球を投げるピッチャーですから、やっぱり肩への負担は大きいはずなんです。絶対にプロに来ると思っていましたから、肩を壊さなきゃいいなと思っていました。

 それで79年に江川さんが入ってくるんだけど、性格的にもワーワーするほうじゃないから......。マウンドでも表情を変えずに投げるピッチャーだったし、普段からそういう感じでしたね。入団の経緯にしても、別に江川さんが悪いわけじゃなく、そのへんはマスコミがいろいろ書きすぎたところもあっただろうし、プロの世界はしょうがないじゃないですか。トレードもあることだし。でも、あの時のドラフトから入団の様子を見ていて、我々も戸惑ったというか、『こういう形もあるんだ』って。そっちのほうが気になっていましたね」

 篠塚はファームにいながらも、法政大時代の江川のことを知っていた。篠塚にとって、生まれて初めて手も足も出なかった真っすぐを投げる江川のことを気にならないわけがない。万全の状態でプロに来てほしいと願いながら、篠塚はファームで泥だらけになって練習に励んでいたのだ。

 江川は、1978年にクラウンライターの1位指名を拒否し浪人。翌年、「空白の一日」で巨人と電撃契約したことで大騒ぎとなり、最終的に交渉権を持っていた阪神とのトレードという形で巨人に入団。だが、春季キャンプの参加禁止、開幕2カ月間は一軍帯同自粛というペナルティーが課せられ、一軍に合流したのは6月だった。

 まともにキャンプを行なえず、マスコミを中心に全国からの誹謗中傷を浴びながらも、規定投球回に到達して9勝をあげた。シーズン途中から入団する外国人投手よりも優秀な成績だ。巨人がルールを無視してまでもほしがった選手だけのことはある。

 劇作家のつかこうへいは、あるエッセイで「あの読売がドラフトをボイコットしてまで獲りたがったとは、大した男だ」と書いたように、江川は紆余曲折がありながらも巨人のスターへと駆け上がっていくのだった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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