ヤクルトナインが語った青木宣親(後編)
前編:ヤクルトGMが感謝する青木宣親の変身と献身はこちら>>
2018年に古巣であるヤクルトに復帰した青木宣親は、「チームのためにやるべきことは何か?」を考え、チームメイトと積極的にコミュニケーションをとり、よき相談役となって選手たちを支えた。青木の献身的なアドバイスは若手選手だけでなく、外国人選手や移籍選手にまで及んだ。
【目が10個くらいあるんじゃないか...】
ホセ・オスナは、コロナ禍の最中の2021年に来日。「1年目からスワローズファミリーに溶け込めたのは、ノリさんのおかげです」と言った。
「人柄もすばらしくて『練習でもクラブハウスでも、好きな音楽をかけていいよ』と勧めてくれたことはもちろん覚えています。自分が『これかけていいかな?』とノリさんに聞いて、一度も却下されたことはなかった。彼がいることによって、異国の地ですけど、ラテンやアメリカでやっている感じでありがたかったです」
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日本の野球についての助言もあった。
「4年間ずっと助言をもらっていますけど、とくに1年目の後半は自分が不調で結果が出てない時期に、ノリさんが早出練習につきあってくれた。すごく感謝しています」
青木がビジターの球場でも惜別の拍手を浴びていることについて聞くと、「リスペクトされているという意味ですばらしいです......」と、少し目を潤ませた。
「けど、ノリさんの引退が迫っていることを感じて、自分にとってはつらい光景でした。ナゴヤ、東京ドーム、甲子園では涙がこらえられなかったんですけど、引退試合では本格的に号泣してしまうと思うので、それまで涙はためておきます(笑)」
ドミンゴ・サンタナもビジターでの光景について、「ノリさんが相手チームのファンからものすごくリスペクトされていて、本当にすばらしいキャリアを過ごしたんだなと思うと、自分もうれしくなりました」と語った。
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「ノリさんは何でも話せる存在で、日本の文化のことなど聞けば何でも教えてくれた。日本のピッチャーはコントロールがよくて、ストライクゾーンも広いから、狙い球を絞って自分の待っているボールしか手を出さないようにすることや、打席のなかでのアプローチについてアドバイスをもらいました。1年目に調子がよくなかった時期は、左手の使い方についてアドバイスしてくれて、そこからよくなっていったんですよ。日本でここまでやってこられているのも、ノリさんがいてくれてからです。ほんとに寂しくなりますね」
西川遥輝は、今シーズンからヤクルトでプレー。2月のキャンプでは「チームに入ってみて、青木さんの存在の大きさをすぐに感じました」と言った。
「目が10個くらいあるんじゃないかと思うほど視野が広いですよね。いろんな人の、いろいろなところを見ているなと感じます。僕のことも見てくれていて、ずっと思っていることはあったんでしょうけど、それを言うわけじゃなく、僕が聞きにいった時に教えてくれました。『遥輝のいい時はこうなっているよね。よくない時はこうなっているよね』と。ほかにも、僕はオフの過ごし方がずっと難しいと感じていたので、そのことも聞いたりしました」
【ノリさんとは一生のお付き合い】
村上宗隆は、自身の1年目オフから青木の自主トレに参加。「僕のことを、本当に愛を持って接してくれました」と、ふたりにしかわからない特別な時間を過ごしてきた。
「なんて言うんですかね、たくさん叱られたりとか、僕もまだ18、19歳と若くて尖っていた部分もあり、反抗的な態度をとったこともありました。それでも青木さんは見捨てることなく、僕のことを思ってくれて言っていただいたので、そういうところにすごく愛を感じました」
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青木の愛情に、村上はどういう形で応えようとしたのだろうか。
「もちろん優勝すること、日本一になることもそうですし、活躍することもそうですし、野球選手としての立ち居振る舞いなどといったところですね。今後もずっとお世話になる方ですし、一生のお付き合いと思っています。こうして、いい野球人生を歩めているのはノリさんのおかげですし、感謝の言葉しかないです」
石川雅規は「僕自身も若い選手たちがノリに影響を受けたのと一緒ですよ」と笑った。青木とは15シーズン、同じユニフォームに袖を通した。
「イチ青木ファンというのもありますし、彼の言動やリーダーシップに救われたことが多いですからね。ノリがメジャーでプレーしていた時期も連絡は取り合っていましたし、僕が成績面でしんどい時期は『石川さん、大丈夫だから!』とアメリカからケツを叩いてくれた。ノリにはずっとケツを叩いてもらっていましたね(笑)」
ふたりはいつだって野球の話をしていたという。
「ヒット1本を打つことへの執着とか、そこはすごいなと思いました。野手と投手で違いはありますけど、どうやったら野球がうまくなるのか、そういう話を常々していましたね。いろいろやってきたことに対しての答え合わせが、ノリとはできたのかなと。そういう意味では、来年はノリがいないので不安はあります(笑)」
青木と過ごした時間のなかで印象に残っていることは何かと尋ねると、石川は次のように話した。
「マウンドからセンターを見た時、当たり前のように青木がいました。そういう存在がいなくなるのは、本当に違和感だなと。みんないつかはユニフォームを脱ぐ時は来ますけど、いまだにいなくなることが信じられないというか。ベンチからの声もそうですけど、外野から『いいボールきてるよー!』とか『石川さん、ここから粘って!』と声をかけてくれました。ほかの選手もそうでしょうけど、そういう声に元気づけられましたよね。まずはノリの最後の試合を目に焼きつけたいなと思います。寂しいですけど、ノリには感謝の言葉しかありません」
石川は「一緒に試合に出て、マウンドから送り出せたらなおいいですよね」と、当日の登板が濃厚となった。
【レジェンドからの無償の愛】
青木はメジャーからヤクルトに復帰後「野手でも話すし、ピッチャーでも話すし、みんなと話した」と、本当にたくさんの選手にアドバイスを送った。
「選手が聞いてきたらというのもあるし、何か困ってそうだったらヒントになるかもしれないと、自分が思ったことを伝えることもあるし、伝えないこともあった。本人が本当に必要としているのかとか、本人が本当にやろうとしていることもあるから、そのあたりのタイミングは見定めながら伝えてきたつもりです。それを受け入れるかどうかは本人が決めてくれたらいい。結局、責任は本人しかとれないと思っているので。外国人選手に関しては、自分もアメリカへ行って経験していますから。やっぱり環境の変化っていうのは、難しいことがあるので。なるべく馴染めるようにという気持ちでしたね」
自分への厳しい練習を繰り返しながら、多くの選手へのアドバイス。青木はそういった生活をシーズン中だけでなく、オフシーズン、キャンプでも続けてきた。
「これは"無償の愛"なのですか?」と質問すると、「そうとってもらえたら、それでもいいですけど」と苦笑いし、こう続けた。
「やっぱりこの世界で生き残るには、野球がうまくなる必要があると思うし、当然チームのためにと言えばそうなんですけど......。やっぱり後輩たちはかわいいですから(笑)。いい野球人生を送ってもらいたいし、一番は困ってそうだったら手助けしたい、そういう気持ちかな(笑)」
10月2日、青木は神宮球場での広島戦で21年間の現役生活にピリオドを打つ。
青木宣親(あおき・のりちか)/1982年1月5日、宮崎県生まれ。早稲田大学から2003年ドラフト4位でヤクルトに入団。最多安打、首位打者、盗塁王、最高出塁率、ゴールデングラブなど、数々のタイトルを獲得。「走・攻・守」三拍子揃った球界を代表する好打者に成長。またWBC、五輪など国際大会にも選出され、日本代表の勝利に大きく貢献。12年にMLBのブリュワーズと契約し、レギュラーを獲得。14年にロイヤルズ、15年にジャイアンツ、16年にマリナーズ、17年はアストロズに所属し、日米通算2000本安打を達成。シーズン途中にブルージェイズ、さらにメッツへ移籍。18年、ヤクルに復帰。 21年、日米通算2500安打を達成した