サッカー日本代表がサウジアラビアと対戦 アラブ諸国の「お金」は世界のフットボールを変えるか

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2024年10月08日 07:20  webスポルティーバ

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連載第18回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

現場観戦なんと7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

W杯アジア最終予選で日本代表が対戦するサウジアラビアは、近年世界のスター選手が続々と国内リーグへ移籍。2034年W杯の開催も有力となるなど、サッカー界を賑わせています。隣国カタールも含め、いわゆる「オイルマネー」で発展してきたアラブ諸国のサッカーの歴史を伝えます。

【アジア最強を誇った1980〜90年代】

 サウジアラビアが「アジア最強」を豪語していたのは1980年代から90年代にかけてのことだった。

 1984年の第8回アジアカップで初優勝すると、その後5大会連続で決勝に進出。うち3度の優勝を飾っている(残りの2度とも、サウジアラビアの優勝を阻んだのは日本)。

 この間、ワールドカップにはなかなか出場できなかったが、1994年のアメリカW杯に初出場するとアジア勢としては1966年イングランドW杯の北朝鮮以来のグループリーグ突破に成功。サイード・オワイランが5人抜きゴールを見せたのも、この大会のベルギー戦でのことだった。

 中東地域で第2次世界大戦前からサッカーが盛んだったのは、地中海に面していて欧州の影響が強かったエジプトやシリアであり、また、人口も多い地域大国のイランなどだ。サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)、カタール、クウェートといったアラビア(ペルシャ)湾岸産油国でサッカーが盛んになったのは、ずっとあとのことである。

 衝撃的なニュースが伝わってきたのは、1997年7月のことだ。

 イングランド代表監督だったドン・レビーが、W杯予選を戦っている最中に突如辞任。UAE代表監督に就任するというのだ。レビーはリーズ・ユナイテッドの監督として、2部にいた同クラブを強豪に育て上げ、リーグ優勝2回など数多くのタイトルをもたらした名将だった。そのレビーが、母国の代表監督という名誉ある座を捨てて中東に渡ったのは、もちろん高額の年俸のためで、彼の行動はイングランドでは顰蹙(ひんしゅく)を買った。

 46年後の2023年、同じような事件が起こった。

 ロベルト・マンチーニが、やはり母国イタリア代表監督を辞任してサウジアラビア代表の監督となり、母国で批判を浴びたのだ。

【オイルマネーでサッカーを強化】

 1973年10月にエジプト、シリア両軍がイスラエルに対して奇襲攻撃を仕掛けた。第4次中東戦争である。その6年前の第3次中東戦争で失った領土奪回が目的で、結局、強力な軍事力を誇るイスラエルの反撃に遭ったのだが、それでもエジプトはシナイ半島奪回に成功した。

 そして、この戦争に伴って、アラブ諸国を中心とする石油輸出国機構(OPEC)がイスラエルを支援する欧米諸国に対する石油輸出を禁止。これをきっかけに原油価格が高騰し、日本でも物価が急上昇し、日本サッカーリーグ(JSL)でもナイトゲームができなくなったりした。

 一方、原油価格の急騰によって産油国は一気に巨額の収入、いわゆる「オイルマネー」を手にしたのだ。そして、その一部を使ってアラブ諸国はサッカーの強化を図った。

 ドン・レビーのUAE代表監督就任はその象徴的な出来事で、中東の各国においてはスタジアムやスポーツクラブが次々と建設され、多くの欧州出身コーチが中東に渡った。その結果、中東諸国はたちまちアジア最強の存在となっていった。

 僕が中東諸国のチームを最初に見たのは、1984年にシンガポールで行なわれたロサンゼルス五輪最終予選の時だった。森孝慈監督の下で強化が進んでいたと思われていた日本代表だったが、4連敗。そして、韓国も3位決定戦でイラクに敗れたため、アジア代表の3枠はサウジアラビア、カタール、イラクの中東勢に独占されてしまった(当時の五輪はフル代表が出場)。

 1986年のアジア大会は韓国のソウルで開催された。前年のメキシコW杯予選で韓国との最終予選に駒を進めることに成功していた日本だったが、アジア大会ではイランとクウェートに完敗してグループリーグ敗退。中東勢は、やはり分厚い壁のように立ちはだかった。

 この大会の準決勝。ソウル五輪スタジアムではサウジアラビア対クウェートの試合が行なわれた。2対2の引き分けからのPK戦でサウジアラビアが決勝進出を決めたのだが、そのテクニックやスピード感溢れる攻防は、従来のアジアのレベルを大きく超えるもので、「日本が中東勢に勝つことは不可能」と思われた(決勝では地元韓国が勝利)。

【資金は欧州強豪クラブ、W杯開催へ】

 1992年に広島で開催された第10回アジアカップ。翌年にJリーグ開幕を控えた日本は、初の外国人監督ハンス・オフトの下で急速に強化を進め、苦戦しながらも決勝進出に成功。決勝戦では高木琢也が決めた貴重なゴールを守りきって、3連覇を狙っていたサウジアラビアを倒して初優勝を決めた。

 試合終了と同時にピッチ上に倒れ込むサウジアラビアの選手たち......。それを僕が信じがたい光景のように感じたのは、ほんの数年前まで続いた中東勢によるアジアのタイトル独占を見てきたからだった。

 1997年のフランスW杯アジア1次予選の時に、僕は初めてサウジアラビアに渡航した。

 今では、サウジアラビアも観光客の誘致に力を入れているが、当時は観光ビザというものがなく、業務ビザ入手もかなり難しかったのだが、中東で長く仕事をしている知り合いのセルビア人監督に依頼して、サウジアラビアサッカー連盟を通じてビザ取得に成功したのだ。

 ジッダでマレーシアとの試合を観戦したあと、僕は首都のリヤドに移動。連盟幹部のインタビューを行ない、また、強豪アル・ヒラルとアル・ナスルのクラブハウスも取材した。

 クラブハウスはすべて政府の予算で建設されているので、設計はほとんど同じ。プロ選手の給料も国庫から支給されており、そのほかの経費はクラブの会長を務める王族たちのポケットマネーや王族所有の企業から支援を受けていた。

 アラブ諸国は、どの国でも王族が富と権力を独占している。そうした国家の指導者は国民による反乱を恐れているので、ご機嫌取りのために娯楽を与えようとするものだ。

 そして、スポーツはその重要な手段のひとつなのだ。

 エネルギー資源の逼迫のため、原油価格高騰はその後も続き、産油国の収入はますます増えている。そうした資金は欧州の強豪クラブに流れ、中東マネーを取り入れたパリ・サンジェルマンやマンチェスター・シティは欧州きっての強豪となり、一方、ワールドクラスのスター選手たちが次々とサウジアラビアを中心とする中東諸国に渡った。

 カタールは、人口300万(うち、カタール国籍は30万人)という国に5万人規模のスタジアムを8カ所も建設してW杯開催を成功させた。大変な資金の浪費である。サウジアラビアも、これに対抗して2034年W杯開催に立候補して開催が濃厚。さらに大規模で豪華な大会となることだろう。

 そのほか、たとえばAFCチャンピオンズリーグ(ACL)エリートの準々決勝以降はサウジアラビアでの開催となるなど、FIFAやAFC主催の大会の多くがサウジアラビアやカタールで開催されるようになっている。

【チームの強化は苦戦中】

 しかし、Jリーグが始まった1990年代に日本の強化が進み、オーストラリアがオセアニア連盟からAFCに転籍したこともあって、中東諸国の相対的な地位は低下。2022年カタールW杯では、サウジアラビアは初戦でアルゼンチンに逆転勝ちしたものの、カタールもサウジアラビアもともに最下位でグループリーグ敗退。FIFAランキングでも、カタールがアジアのなかで5番目、サウジアラビアは7番目と順位を低下させている。

 国内リーグでも高給が保証されているため、選手たちは海外リーグに出たがらず、また、アラビア半島周辺以外への長距離移動の経験が少ないため、中東勢はW杯最終予選で苦戦を強いられる。

 2026年W杯最終予選でも、サウジアラビアはホームでの開幕戦でインドネシアと引き分け、2戦目では日本が7ゴールを奪って圧勝した中国に2対1でなんとか勝利を収めている。10月シリーズでの日本とのホームゲームは、サウジアラビアにとってはサバイバルのための戦いとなる。

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