日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞が決まった背景には、心身に癒えない傷を抱えながらも活動を推し進めてきた被爆者らの強い思いがあった。代表委員を長年務め2021年に96歳で亡くなった広島の被爆者故坪井直さんもその一人だ。坪井さんは亡くなるまで「原爆だけでなく戦争も殺人も絶対に許さない。どんな民族、人種でも命が大事」と声を上げ続けた。
坪井さんは20歳のとき、爆心地から約1.2キロで被爆。全身やけどを負い、重度の貧血や二つのがんなどを抱え、入退院を繰り返した。
中学教諭を定年退職後、県被団協の事務局長に就いた。00年、日本被団協代表委員に就任し、04年からは県被団協理事長も兼務。「ピカドン先生」と呼ばれながら、生徒らにあの日の惨劇を伝え続けた。
米仏など海外へも20回以上出向いて核廃絶を訴えた。「世界を動かすには、原爆だけではなく『人の命が大事』という話をしなくては通じない」と生前に語っていた坪井さん。「核廃絶は、被爆者だけでは実現できない」。原爆を全く知らない人々と対話を重ねるうち、そう考えるようになったという。
原爆症認定訴訟では09年8月、全員救済へ向けた確認書を麻生太郎首相(当時)と締結。同年12月の原爆症救済法成立を後押しした。
16年5月、米国の現職大統領として初めて平和記念公園(広島市中区)を訪問したオバマ大統領(当時)に、被爆者を代表して「核なき世界の実現に向け、一緒に取り組みましょう」と伝え、握手を交わした。
「息を引き取るまで、平和へのメッセンジャーでいたい。最後までみんなと一緒に平和のため尽くしていく」と口にしていた坪井さん。核兵器の廃絶は実現に至っていないが、口癖は「ネバーギブアップ」だった。
平和記念公園の原爆ドーム=11日夜、広島市中区
オバマ米大統領(当時)と対面し笑顔で握手する故坪井直さん(右)=2016年5月27日、広島市中区の平和記念公園