NBA伝説の名選手:ディケンベ・ムトンボ コート外の人道的活動含めて世界に影響を与えた「リング下の守護神」

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2024年10月15日 07:30  webスポルティーバ

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NBAレジェンズ連載20:ディケンベ・ムトンボ

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第20回は、NBA史に残るディフェンダーとして名を残し、オフコートでは人道面での活動で世界に影響を与えたディケンベ・ムトンボを紹介する。

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【医師の夢をあきらめ一流の選手の道へ】

 ディケンベ・ムトンボはバスケットボール選手としてだけではなく、人道的な取り組みなど、オフコートでも世界中で大きなインパクトをもたらした人物だ。

 父親が学校の校長、ザイール(現コンゴ民主共和国)の教育機関で働いていた影響もあり、ムトンボは8人の兄弟姉妹とともに、学業で好成績を残さなければならない少年時代を過ごす。なかでもムトンボは勉強熱心で、医師になることを夢見ていた。高校の最終学年には国際科学コンテストで優勝。アメリカの政府独立機関から学術奨学金を提供され、医師になるための進学で21歳の時に渡米する。

 ムトンボが子どものころにやっていたスポーツは、サッカーとマーシャルアーツだった。しかし、身長が高くなったことで父や兄たちからの勧めもあり、16歳の時にバスケットボールに専念することを決断。アフリカから背の高い子がやってくると聞いたジョージタウン大は、バスケットボールチームを率いるジョン・トンプソンコーチがムトンボと会って話をした結果、奨学金をもらうアスリートとしてプレーすることになる。

 しかし、バスケットボールと医学部の勉強を両立する時間がないと大学側が言及したことにより、医師になる夢の実現が難しくなった。

「とてもガッカリした。両方できると思っていたが、それは不可能だと言われたんだ」

 ムトンボは当時を、こう振り返る。

 元NBAのセンターで、パトリック・ユーイング(元ニューヨーク・ニックスほか)を育てた実績があるトンプソンコーチの存在は、ムトンボが選手として成長するうえで大きな意味があった。218cmの身長と長い腕を活かしたブロックショットが武器のセンターとなり、1988-89シーズンのセント・ジョンズ大戦でNCAA史上最多となる12本を記録。アロンゾ・モーニング(元マイアミ・ヒートほか)と形成したツインタワーは、対戦相手にとって脅威でしかなかった。

 1990年と1991年(モーニングと同時選出)にビッグイースト・カンファレンスの年間最優秀選手賞を受賞したムトンボだが、NCAAトーナメント(全米大学選手権)ではファイナルフォー(ベスト4)の舞台に立つことができなかった。しかし、大学のラストシーズンでは1試合平均15.2点、12.2リバウンド、4.7ブロックショットを記録。1991年のNBAドラフト1巡目4位でデンバー・ナゲッツに指名されたムトンボは、言語学と外交学の学士号を取得して卒業したあと、25歳でNBA選手としてのキャリアをスタートした。

【最高のディフェンダーとしての歩み】

 1990-91シーズンのナゲッツは、ラン&ガン・オフェンスでハイスコアの試合をするチームだったが、1試合平均失点が130.8とディフェンスに難があった。しかしムトンボはルーキーシーズンから平均16.6点、12.3リバウンド、3ブロックショットをマークするなどの活躍で、ナゲッツの平均失点は107.6まで減少。1年目でオールスターに選ばれるなど、ムトンボはNBA屈指のディフェンダーとして認知されたのである。

 3年目の1993-94は、ムトンボのキャリアで最も強烈な印象を残したシーズンだった。

 ナゲッツは42勝40敗でレギュラーシーズンを終え、プレーオフ最後の椅子となるウェスタン・カンファレンス第8シードでプレーオフに進出。1回戦では第1シードのシアトル・スーパーソニックス相手に2連敗を喫したが、ムトンボは第3戦で19点、13リバウンドをマークしたのを皮切りに第4戦、第5戦で15リバウンド以上、8ブロックショットを記録。ムトンボがソニックスにとって大きな壁になり、2連敗からの3連勝でカンファレンス準決勝進出の原動力になった。ナゲッツはNBA史上初めて第1シードを倒した第8シードチームとなり、ムトンボがマークした5試合合計31本のブロックショットは、5試合シリーズにおけるNBAプレーオフ史上最多の数字だった。

 第5戦、最後のリバウンドを奪って試合終了を迎えたムトンボがボールを抱えながらフロアに倒れ込んだシーンは、多くのNBAファンの記憶に残っている。

 ムトンボはソニックスとのシリーズを次のように語っている。

「誰も我々がこんなことができるとは思っていなかったが、みんなが間違っていたことを証明した。自分を信じて一生懸命努力すれば、何でも可能だということを世界中に示した」

 翌1994-95シーズンを皮切りに、ムトンボは年間最優秀守備選手賞を4度受賞する偉大なディフェンダーとしてのキャリアを不動のものにしていく。ブロックショットを決めたあと、"お前にショットを決めさせない!"という意味で人差し指を左右に振るFinger Wag(フィンガーワグ)は、ムトンボを象徴するジェスチャーだった。

 平均11点、11.8リバウンド、キャリア最高の4.5ブロックショットを記録した1995-96シーズン終了後、ムトンボはフリーエージェントになり、アトランタ・ホークスへ移籍。
スティーブ・スミスとムーキー・ブレイロックのガード陣がオフェンスを牽引し、ムトンボとクリスチャン・レイトナーがフロントラインを構成する強豪チームとして地位を築くも、プレーオフではカンファレンス準決勝止まりだった。

【恵まれない環境における機会創設など尽力】

 ムトンボは得点とリバウンドでダブルダブル、ブロックショットも3本前後の数字を記録してきたが、2001年2月22日のトレードでホークスからフィラデルフィア・76ersへ移籍。大学の後輩であるアレン・アイバーソンが大黒柱のチームではリング下の守備とリバウンドで存在感を発揮し、イーストで最高成績となる56勝26敗でプレーオフに進出。ムトンボは平均13.8点、13.7リバウンド、3.1ブロックショットと攻防両面で活躍し、プレーオフも勝ち抜き、キャリア初となるNBAファイナルの舞台に立つことができた。

 しかし、シャキール・オニール、コービー・ブライアント率いるロサンゼルス・レイカーズに完敗。敵地での第1戦でシクサーズはアイバーソンが48得点と爆発し、その年のプレーオフで12連勝と無敗を誇っていたレイカーズに土をつけたが、その後、4連敗で優勝を逃した。2002年8月にニュージャージー・ネッツにトレードされたムトンボは、控えセンターとして2度目のNBAファイナルを経験したが、サンアントニオ・スパーズに敗戦。その後所属したヒューストン・ロケッツではヤオ・ミンの成長に大きく貢献したが、2008-09シーズンを最後に42歳で現役を引退した。

「私はNBAで18年間プレーした。優勝は果たせなかったが、数多くのことを成し遂げたと感じている。成功はチャンピオンシップリングだけで測ることはできない。コートの内外で多くの人々の人生に影響を与えたことを、私は最も誇りに思っている」

 自身のNBAキャリアをこう語ったムトンボは、人道主義者としてオフコートでも大きなインパクトを残している。1997年にディケンベ・ムトンボ財団を設立し、コンゴ民主共和国の生活環境を向上させることを皮切りに、さまざまな活動に関わってきた。

 2007年にはベッド数が150以上の病院を首都・キンサシャに建設するために、1500万ドルを寄付した。

「私の目標はコンゴの人々に恩返しをすること。母は常に恵まれない人たちを思いやりなさいと私に教えてくれた。この病院は母の遺志を尊重しながら、最も助けを必要としている人たちを助けるための手段なんだ」

 こう動機を語ったムトンボは、新しい病院を1988年に亡くなった母の名前と同じビアンバ・マリー・ムトンボ・ホスピタルと命名。ほかにもアフリカにおける教育、特に女性が勉強する機会や奨学金制度、ユニセフの親善大使としても活動していた。

 2022年10月、ムトンボは脳腫瘍の治療を受けていることを公表したが、2024年9月30日に58歳で永眠。バラク・オバマ元アメリカ大統領ほか、影響力の強い多くの要人たちがSNS等でコメントを発し、その死を悼んだ。

 コンゴ民主共和国キンシャサの地からNBA史上最高のディフェンダーのひとりにまで上り詰めたムトンボの人生は、粘り強さ、スキル、そして心の強さを証明するものだった。

【Profile】ディケンベ・ムトンボ(Dikembe Mutombo)*フルネームはディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ジャン・ジャック・ワムトンボ/1966年6月25日生まれ、コンゴ民主共和国(旧ザイール)出身。1991年NBAドラフト1巡目4位指名。
●NBA所属歴:デンバー・ナゲッツ(1991-92〜1995-96)―アトランタ・ホークス(1996-97〜2000-01途)―フィラデルフィア・76ers(2000-01途〜2001-02)―ニュージャージー・ネッツ(2002-03)―ニューヨーク・ニックス(2003-04)―ヒューストン・ロケッツ(2004-05〜2008-09)
●NBAファイナル進出2回(2001、03)/最優秀ディフェンス選手賞4回(1994、96、97、2000)
●主なスタッツリーダー:リバウンド王2回(2000、01)/ブロックショット王3回(1994〜96)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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