サッカー日本代表の「無失点」はそれほど重要か 一観戦者にとって魅力的な試合とは?

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2024年10月17日 13:30  webスポルティーバ

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連載第10回
杉山茂樹の「看過できない」

 森保式3−4−2−1を「超攻撃的サッカー」と称し、盛り上がろうとする日本サッカー界に、筆者はいささか閉口している。論理的かつ理論的な物差しを当てようとせず、「攻撃的サッカー」「守備的サッカー」をムードで語ろうとする。なぜそういうことになるのか。もともとこだわっていなかったからだと考える。

 欧州では1990年代後半に両者が激しく対立。その結果、攻撃的サッカーがメインストリームを歩むことになった。そうした歴史的な背景が日本では詳らかにされていない。欧州で起きた議論もないまま現在に至っている。

 森保一監督は6年前に行なわれた代表監督就任会見で「臨機応変」という言葉を持ち出している。攻撃的なのか、守備的なのか、布陣はどうするのかと問われた際の返答であるが、白黒をハッキリさせないその曖昧さに、日本サッカー界はいまなお翻弄されている。その結果、欧州的思考法ではなく非論理的な日本的思考法でサッカーいう競技が語られている。森保式3−4−2−1が「超攻撃的サッカー」と称される理由だ。

 得点14、失点0。2026年W杯アジア3次予選、日本は中国、バーレーン、サウジアラビア戦までの3試合を、上記のような圧倒的なスコアで乗りきった。オーストラリア戦のオウンゴールで今予選の初失点を許したわけだが、その失点にこだわる人は少なくない。

 リードしていたバーレーン戦やサウジアラビア戦の試合終盤、テレビの解説者はこう述べたものだ。

「失点ゼロで抑えたいですね」

 今回に限った話ではない。日本代表戦以外にも、Jリーグの試合、ヘタをすると欧州のクラブの試合でも、テレビ解説者は終盤、失点ゼロ、完封を求めたがる。そこに美徳があるとしている様子だ。3−0で勝っていて、3−1にされることを極端に嫌う。

 どこかプロ野球における試合終盤の投手リレーを想起させる、「試合の締め方」にこだわろうとする。森保監督は、4バックで戦っていた時も、土壇場で5バックにする守備固めを幾度となく採用しているが、多くのテレビ解説者は、それを当たり前のこととして受け入れていた。

【「完封」を望む観戦者ばかりではない】

 だが、本当にその必要はあるのだろうか。サッカー的な発想なのだろうか。失点を恐れず、追加点を狙いにさらに攻撃的に行くという考え方があってもいいのではないか。

 テレビ解説者は、言ってみれば監督予備軍だ。監督浪人や監督卒業者も含まれるが、その大半は元サッカー選手だ。選手時代から、指導者にそうした教育を受けてきたと考えるのが自然である。

 印象に残っているのは、1999年のシドニー五輪アジア予選、フィリップ・トルシエ率いる五輪代表チームが香港スタジアムで、地元香港と対戦した時のことだ。4−1という結果を受けて、主将の宮本恒靖(現サッカー協会会長)は「4−0で終わりたかった。最後の1点は余計だった」と語った。

 だが、スタンドを満員に埋めた地元ファンは、最後の1点で救われることになっただろう。そこまで心を鬼にしなくてもいいのではないか。そのコメントを聞きながら筆者はそう思ったものだ。選手、主将としてはそれが"王道"を行く姿かもしれないが、すべての観戦者がそれを望んでいるわけではまったくない。

 ヨハン・クライフ(アヤックス、バルセロナなどの監督を歴任)は筆者に同意を求めるように語りかけてきたものだ。

「観客にとっては1−0より3−2のほうがいいだろ。面白くない1−0ならば、いっそ2−3で敗れたほうがいいくらいだ。私はそうした志向の持ち主なんだ」

 一方、プレッシングフットボールを提唱したアリゴ・サッキ(ミラン、イタリア代表などの監督を歴任))はこう述べている。

「1−0を好むイタリア人にとって、カンプノウのファンは驚き以外の何ものでもない。1−0になってゲームが停滞すると、『なぜ2点目を狙いに行かないんだ』と怒り出す。イタリア人では考えられないことだが、これがサッカーのあるべき姿だと思う」

 後にレアル・マドリードのダイレクターに就任したサッキだが、筆者はバルセロナの練習場でサッキの姿を2度見ている。「トータルフットボール」の継承者であるクライフと、プレッシングの提唱者であるサッキが近い関係にあることを目撃している。

 実際、サッキは「プレッシングサッカーはトータルフットボールの延長上にあるものだ」とこちらのインタビューに答えている。「トータルフットボールが出現する前と後でサッカーの概念は180度変わった」とも述べている。近代の欧州サッカーはこの2大発明によって支えられているのである。それと攻撃的は同義語なのである。

【美しかった3−2の試合の数々】

 観戦者がそれを望んできた。ファンが望む理想的スコアは3−2だと言われている。どちらかが無得点で終わる試合ではない。初めて出かけたW杯で、筆者は早速それを実感することになる。

 1982年スペインW杯2次リーグ。いまはなきバルセロナのデ・サリアスタジアムで行なわれたブラジル対イタリアだ。この試合を見てしまったばっかりに、ライターの道に進むことになった、自分史に大きな影響を与えた一戦だ。試合は3−2でイタリアが勝利した。

 スペインW杯では、セビリアのラモン・サンチェス・ピスフアンで行なわれた準決勝、フランス対ドイツも忘れることはできない。3−2を通り越して3−3になり、PK戦にまで及んだ一戦である。

 3−2にこだわれば、1994年アメリカW杯準々決勝。ダラスのコットン・ボウルで行なわれたオランダ対ブラジル戦も美しい試合として印象に残る。ブランコ(ブラジル)の鬼のようなFK弾で決着がついた試合だが、攻撃的サッカー同士の撃ち合いに酔いしれることになった。

 オランダ絡みではもう1試合、挙げずにはいられない3−2の一戦がある。ユーロ2004のグループリーグ、アヴェイロで行なわれたオランダ対チェコだ。火花が散るようなハイレベルの好勝負。アリエン・ロッベンのドリブルと、勝利を収めたチェコの監督、カレル・ブリュックナーの采配が光った一戦に、筆者は陶酔することになった。

 日本が世界の舞台に立ったのはW杯で言えば1998年フランスW杯以降だ。それ以前のW杯やユーロは、出場国の当事者の立場では取材していない。観戦取材は試合鑑賞とほぼ同義語だった。歓迎すべきは当然、完封ではなく撃ち合いだった。

 世界のファンも日本に対してそれを望んでいるはずだ。世の中には日本の完封勝利を喜ぶファンばかりではない。テレビ解説者の「ゼロで抑えたいですね」は誰に向け、どの視点に立って喋っているのか。

 サッカーの面白さは、外国チーム同士の試合でも楽しめることだ。日本人がピッチにひとりもいなくても、多くの人が関心を寄せることができる。それは世界共通だ。サッカーが世界で断トツの人気競技である理由である。ゲームそのものにエンタメ性が内包されている。

 完封劇を美徳とする文化があってもいいが、それにこだわらない考え方があってもいいはずだ。サッカーは野球ではない。サッカー独得の文化をもっと大事にしろと言いたくなる。

 ちなみに、元選手のテレビ解説を聞いていると、試合そのものを楽しむ姿勢、面白がる姿勢が欠けているように思えてならない。森保監督にしても、一サッカーファンであった経験はあるだろうか。スタンド観戦を、しがらみなく楽しんだことがあるようには思えないのだ。

 失点0ではなく、もう1点。失点を恐れず、追加点を狙って最後まで攻め続けろと言い出す人がいない日本のサッカー界。真の攻撃的サッカー論者が少ないことに、筆者は危惧を覚える。このバランスの悪さ、偏りを見過ごすことができないのだ。筆者をはじめ、それを望むファンは少なくないはずだ。

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