巖さんの精神世界に「少しでも近づきたくて」 袴田姉弟を記録し続けたジャーナリストが描く「再審無罪」までの軌跡

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2024年10月18日 09:00  弁護士ドットコム

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袴田巖さん(88)の再審無罪判決が10月9日、確定した。死刑囚という重荷が解かれるまで、半世紀以上の歳月が費やされたこの事件を20年以上にわたって追い続けてきたのが、ジャーナリストの笠井千晶さんだ。


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2002年1月、袴田さんの姉、ひで子さん(91)と出会った笠井さんは、袴田さん自身とは面会できない間も、ひで子さんと交流を続けてきた。



再審請求が認められた2014年3月27日、ひで子さんに付き添って東京拘置所に同行した笠井さんはこの日、約48年ぶりに解放された袴田さんの姿を映像に収めている。



以来、二人に寄り添い、400時間以上カメラを回してきた笠井さんが監督・撮影・編集を手がけたドキュメンタリー映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』が10月19日から公開される。



報道では知り得ない二人の姿を伝える作品がどのようにつくられたのか。これまで袴田姉弟とどんなやりとりをしてきたのか。笠井さんに聞いた。



●「恩返しのつもり」で活動記録をはじめた



――笠井さんは、袴田さんが釈放される10年以上前から、ひで子さんと交流されていたそうですが、きっかけは何だったのでしょうか。



大学で法律を学んだわけではなく、記者になるまで裁判を傍聴したこともなかった私は、静岡放送に入社4年目、記者になって2年目に静岡県警で開かれたレクに参加して、初めて袴田事件を知りました。



配布されたパンフレットには、巖さんが獄中から出した手紙の抜粋が掲載されていたのですが、明日どうなるかわからない状況にいながら、家族を見舞う手紙の内容は、私がイメージする死刑囚とは程遠いものだったんです。



そのとき、巖さんが書いた手紙にどうしても触れてみたくて、ひで子さんに連絡して会いに行ったことから、やりとりが始まりました。





――袴田さんが釈放されるまでの12年間、ひで子さんとはどんなお付き合いをされていたのでしょうか。



お会いした1カ月後、浜松支局に移動になったので「浜松に引っ越します」とお伝えしたら、数日後、ひで子さんが「私が持っている部屋に入らない?」と連絡くださったんです。



最初はお借りしてよいものかと考えましたが、いろいろ見た中でもひで子さんのお部屋はとても居心地よく、場所も便利だったので、お借りすることを決めて。出会って間もなく、大家さんと入居者としてお付き合いが始まりました。



静岡放送時代は報道番組の制作のために取材をしていましたが、退社後、アメリカ留学を経て、名古屋の中京テレビで働き始めて以降は、浜松は放送エリア外なので、仕事でひで子さんを撮影する機会はなくなったんです。そこからは自前の機材を持参して、日常のお付き合いの中でカメラを回し続けました。



――仕事のための撮影ではなかったのですね。



当時は映画にすることなどまったく考えていませんでしたが、ただ記録は残しておこうと、はっきり思っていました。



私がひで子さんと出会った頃は今と違って世間の関心は低く、支援活動も停滞気味で、事件は忘れられかけていたんです。それでもひで子さんは月に一度、東京拘置所に通い、巖さんに差し入れを続け、人知れず、自分のできることをコツコツ続けていました。



自分にはお金をかけず、真面目に堅実に、慎ましく暮らしているひで子さんのために何かお手伝いしたいと思ったものの、私にできることは限られています。映像を仕事にしている自分にできることは記録を残すことだと思い、恩返しのつもりで、ひで子さんの活動を記録し続けることにしました。



●再審決定の日「釈放される」と思っていなかった



――世間と距離を置いて生きざるを得なかったひで子さんにとって、笠井さんは個人的なお付き合いができる方だったのでしょう。



たまたま波長が合ったのかもしれません。事件のことはすべて承知の上で、お互い取材どうこうではなく個人的なお付き合いをしています。ひで子さんにとって、私は他のメディアの方々のように取材をする記者ではなくなっているのかもしれません。個人的な付き合いが続いたのは、やはり、ひで子さんが非常に魅力的な人だったからです。



――整理整頓された自宅の様子、袴田さんの釈放後の暮らしぶりから、お二人の、人としての品を感じました。



映像の中でもいつもお部屋が整然と片づいているように、ひで子さんはすごくきちんとした方で、本当にその居住まいに、人柄に品が表れているなと私も感じています。巖さんも、犯罪者とは程遠い人であることがその生活ぶりから伝わると思うので、その辺りも観る人に感じてもらえればと思っています。



――再審決定と同時に袴田さんが釈放された2014年3月27日のことを聞かせてもらえますか。



私は前日からひで子さんの家に泊まっていたのですが、当日は朝6時頃から記者の方々が自宅に取材にやってくる中、裁判所に向かうひで子さんに付き添いました。長い裁判の中で、再審開始決定が初めてだったこともあり、静岡地裁の決定への反響はとても大きかったです。「どんな決定になるにしろ、巖に伝えにいく」。決定前からそう決めていたひで子さんは、静岡での記者会見を途中で抜けて東京拘置所に向かいましたので、私も同行しました。



――釈放が決まったのはいつだったのですか。





決定文に「死刑執行と拘置の停止」と書かれていましたが、検察が異議申し立てをする可能性もあるし、裁判所がどう対応するかもわからないので、誰も今日の今日、釈放されるとは思っていませんでした。



東京拘置所に着いたのは15時半頃です。当時、巖さんはひで子さんの面会にも応じていなかったので、ひで子さんは3年半ほど巖さんに会えない状況が続いていました。この日は、看守さんが巖さんを面会室に連れ出して、ひで子さんと弁護士さんは何とか面会できたんです。



しかし巖さんは、いくら「再審開始だよ」と一生懸命伝えても、「嘘だ」と言って信じようとしなかったそうです。とにかく顔を見ることができたので帰ろうと思っていたら、ひで子さんが係の人に呼ばれて、お金や荷物を返すといわれ、その直後、巌さんと応接室で直接、会うことができたそうです。



――ひで子さんの面会中、笠井さんはどうされていたのですか。



私はカメラを持っていたので拘置所内に入ることができず、敷地の外にいました。この日、あるテレビ局がひで子さんに密着取材をしていたのですが、テレビ局の方から「弁護士さんに(局が用意している)ワゴン車を貸してほしいと頼まれたので、笠井さんも車に同乗してほしい」といわれて。



情報が錯綜していて、釈放されるかどうか誰もわからない状況の中、わけのわからないまま、私も車に乗りました。その後、巖さんたちが拘置所の玄関に現れて、ワゴン車に乗り込んできたわけです。47年7カ月ぶりに拘置所の外に出て以降のことは、映画にもある通りです。



――誰も、状況をよく把握できない中で釈放されたのですね。



メディアの追跡を心配したワゴン車は、行き先も決めずに出発しました。本当は静岡に帰る予定でしたが、巖さんもひで子さんも車に酔って具合が悪くなってしまい、都内のホテルに泊まることになったんです。



弁護士さんにはひっきりなしに電話が来るし、車に同乗していた女性は私だけだったので、二人のケアをしながら、その合間に可能な範囲でカメラを回すという、本当にドタバタ状態でした。



●獄中で築き上げた「精神世界」に近づきたかった



――笠井さんだから撮れたと思うのですが、意に反して死刑判決を書いた元裁判官・熊本典道さんと袴田さんの再会シーンです。



ご病気の熊本さんは遠出のできる状態ではありませんでしたが、パートナーの方から「熊本さんを袴田さんにどうしても会わせてあげたい。そのことをひで子さんに伝えてほしい」といわれていました。



熊本さんとの再会が実現する直前まで、巖さんは1年余り、浜松を出なかったのですが、その行動パターンが数カ月から1年おきくらいで変わるんです。あるとき巖さんが東京に行くと言い出したので、ひで子さんは次の機会を伺っていました。そして、巖さんが「ローマに行く」と言い出すと、「じゃあ巌を九州に連れていく」と即断して。それで「ローマに行くよ」と言って、巌さんを新幹線に乗せました。



熊本さんに会うと説明しても、巖さんが理解できるかわからないけれど、それでもとにかく二人を会わせることにしたのは、ひで子さんの計らいでした。



――ひで子さんに留守番を頼まれて、最初に袴田さんと二人で過ごしたときは、緊張しませんでしたか。



最初はどう接すればよいかと思いましたが、日常生活において意思疎通に支障のないことはすぐわかりました。特に話をするわけではなくても一緒にいて、時間が来たら、ひで子さんが用意された食事を出したり、お茶をすすめたり、巖さんが快適に過ごせるように心がけました。巌さんは2015年の秋頃から、独りでふらりと出かけ、毎日歩くことが日課になりました。



――カメラが映す焼けた首筋が、真夏でも日課を全うしていることを伝えていました。



雨の日も猛暑の日も休むことはなく、1日5〜6時間、午前も午後も出かける日もありました。今は体調のこともあり、支援者の車で外に出ていますが、それは気晴らしや楽しみとしての散歩というより、巖さんにとってやらなければいけない、巖さん曰く「神として」の大切な仕事で、そこには確固たる何かがあるのだと思います。



――400時間という膨大な記録をどんな方針で編集したのでしょうか。



2時間あまりの映像にするのは大変な作業でしたが、まずは400時間の映像をすべて文字起こしして、頭にインプットしたうえでストーリーを紡いでいきました。



何より心がけたのは、巖さん自身の言葉をきちんと届けるということです。巖さんが「神として」語る言葉を「拘禁反応だからわからない」と諦めるのではなく、巖さんが獄中で築き上げた精神世界に少しでも近づこう、と。理解不能と決めつけず、巌さんが伝えようとしている言葉をまっさらな気持ちで聞こうと思っていました。



――ひで子さんは血糖値が上がろうが、階段から転げ落ちようが、袴田さんの好きにさせてあげています。



普通なら心配で、外に出せなくなりますよね。でも、ひで子さんには心配はあっても、あれこれ言わずに巖さんを見守る度量があります。誰からも見向きもされず、長い獄中生活の間も「巖は決して殺人などしていない」と言っていたように、ひで子さんは巖さんのことを心底信じています。ひで子さんが好きにさせてあげるから、巖さんは自由を謳歌できている。それは本当に素晴らしいことだと思います。



――判決後、法曹界やボクシング界など多くの人が世論に働きかけました。検察側の控訴断念をどんな思いで受け止めましたか。



控訴の可能性があると言われていた中、断念の一報に触れ、ほっとしました。同時に、無罪が確定することとなり、長い長い闘いが一つの終わりを告げたわけです。58年という、私が生まれる前からの歳月を思うと、手放しで良かったとは決して言えません。それでも、袴田さん姉弟が重荷を下ろすことができたことは、奇跡のように感じています。 そして私は、無罪の確定を見届けて、その部分までを盛り込んだ映画を完成し、劇場公開を迎えます。ただ映画の完成は終わりではなく、私はこれからも、静かで穏やかな日常を続けるお二人を見守りながら、記録を続けていきたいと思っています。



(取材・文/塚田恭子)



【プロフィール】かさい・ちあき/山梨県生まれ。お茶の水女子大学卒業後、静岡放送に入社。報道記者としてニュースやドキュメンタリー番組に携わる。アメリカ留学、中京テレビ勤務を経て、2015年からフリーとなり、作品を発表。2017年に発表した『Life 生きてゆく』で第5回山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞。これまで袴田さん姉弟に関連するテレビ番組を4本手がけている。



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