ブル中野がヌンチャクを武器とし男性ホルモンの注射を打ったわけ 人気絶頂の極悪同盟での苦悩も明かす

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2024年10月22日 10:21  webスポルティーバ

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ブル中野インタビュー 中編

(前編:15歳で全女に入り、約1年で極悪同盟に強制加入 ダンプ松本からは「半ハゲでいいな」>>)

 全日本女子プロレスでのデビュー2年目で極悪同盟に加入し、「悪役としてリングのなかで生きていこう」と覚悟を決めたブル中野。モヒカン頭、パンクをモチーフにしたヒールメイク、ヌンチャクを武器にユニットのNo.2として人気を獲得していった。

 誰もが知る悪役レスラーになったが、実はある危機感を覚えていたという。そう考えるようになった理由や、当時の悪役の苦しい立場などと併せて聞いた。

【凶器がヌンチャクになった理由】

――なぜブルさんは凶器としてヌンチャクを使用していたんですか?

ブル:ダンプさんは竹刀やアルミ缶、クレーン・ユウさんは金属チェーンを使っていて、「おまえも何か持て!」と言われて......。それで私なりに、「クレーンさんが金属チェーンだから、ちょっと格下の自転車のチェーンにしよう」と考えました。でも、振り回したら自分も痛かったし、金属チェーン以上に殺傷能力があったので自転車チェーンは却下したんです。

 その後のある合宿で、コーチとして指導していただいた空手の山崎照朝先生から、私とクレーンさんはヌンチャクを教わったんです。本来、山崎先生はクラッシュギャルズのコーチだったんですけどね(笑)。練習を開始して早々、クレーンさんはヌンチャク練習をやめてしまったので、これはチャンスとばかりに、私は「ヌンチャクを自分の武器にしよう!」と練習に精を出しました。

――習得するまで、どのくらい期間がかかりましたか?

ブル:4、5カ月くらいかな? とにかく毎日練習しました。山崎先生からは「手の延長線上にヌンチャクがあると思えるくらいまで、ずっと握っていろ」と言われていたので、寝る時も握ったままでしたね。周囲からは、変な人だと思われることもありました(笑)。

 ヌンチャクを使用したコンビネーションはいろいろありました。なかなか練習する時間が取れなかったので、みんなが寝静まったあとにホテルの廊下で自主練習したこともあります。でも、「うるさい!」と怒鳴られたので、ホテルの外に出て練習を続けたり......。とにかく、ヌンチャクを自分の武器にしようと無我夢中で練習しました。

【「全員が私たちを攻撃してきた」】

――悪役として体重を増やすために、男性ホルモンの注射をしたという話もありますが、本当ですか?

ブル:本当のことですね。当時、ダンプさんの体重が100キロあったんですが、自分はどうしても92キロまでしか太れなくて。「100キロにする」と決めたのは、アジャコングとの対戦が始まった頃かな。それで男性ホルモンの注射を打って増量しました。

――テレビドラマ『毎度おさわがせします』や『夏・体験物語』などに出演していましたが、それで極悪同盟のファンが増えたのでは?

ブル:極悪同盟全体というより、個人個人に"追っかけ"が少しずつ増えていきました。ただ、当時はそれを気にする間もないほど本当に忙しすぎて、移動する時だけ眠るような生活でした。試合が終わってから緑山スタジオに行って、夜からずっと撮影。それが終わって、帰る車内で寝る感じです。睡眠時間は、1日平均で3、4時間でしたね。

――当時、極悪同盟が乗っているバスを叩いたファンが、新人のレスラーに怒られて腕立て伏せをやらされた、と聞いたことがあります。

ブル:体を触ったり石を投げたりするファンがいると、捕まえて懲らしめましたね。捕まえないと自分が先輩から怒られますから(笑)。当初は捕まえたあと、二度と舐められないようにボコボコにしました。ただ、それが会社のなかでも問題になって、「ファンに手を出してはいけない」ことになったんです。今では当たり前のことですけどね。

 それで「じゃあ、どうしようか」となり、腕立て伏せやスクワットをやらせる仕置きスタイルに。しかし、それも徐々にダメになってきて、最終的にモノマネなど何かをやって、「極悪同盟の誰かを笑わせたら帰っていい」というルールになりました(笑)。

――1985年8月28日、大阪城ホールでダンプ松本vs長与千種の敗者髪切りデスマッチが開催され、ダンプさんが勝利。リング上で長与さんの髪切りが行なわれましたが、試合後、バスが取り囲まれるというハプニングがありました。

ブル:勝利したダンプさんはもちろん、セコンドについていた私も、退場時にはお客さんからのヤジの嵐を浴びながら、殴られたりもました。警備員からも殴られましたよ。とにかく、全員が私たちを攻撃してきました。なんとかバスまで行くことはできたんですけど、ファンに囲まれて動かない。そのうち、ファンがバスを揺らし始めたので、ダンプさんと「バス倒されないかな?」「家に帰れるかな?」と話した記憶があります。

【ベビーフェイスからの嫉妬】

――ファンだけではなく、他のレスラーからの嫉妬も多かったと聞きます。

ブル:悪役がテレビで活躍する姿を「面白くない」と思うレスラーも当然いましたからね。あの頃は芸能人の水泳大会に出演することもあり、私は元水泳部だったので、優勝してたくさん賞品をもらいました。でも、私の手元にはほぼ残らないんです。

 先輩に「おまえには必要のない賞品だよな」と言われたら、若手の私は「はい」としか言えませんでした。ダンプさんは、新人の頃に同じような経験をして嫌な思いをしていたので、後輩の賞品を横取りするようなことはしませんでしたね。

――悪役に対する風当たりは、常に強かったのでしょうか?

ブル:それまでも、悪役は池下ユミさんやマミ熊野さん、「ブラック・ペア」や「ブラックデビル」などがいましたが。本当に憎まれるだけ。会社側からも、極悪同盟に対して「おまえら、絶対に人気者になろうなんて思わないでくれ」と言われていました。それが、だんだん悪役のほうに仕事が入るようになって、会社も私たちを優遇するようになったんです。

 一方でベビーフェイスのレスラーたちは、「いつまでもおまえたちは私たちの引き立て役だろう」という雰囲気を出していました。それはずっと変わらなかったですね。だんだん私たちのテレビ露出が増えてきた時には、会社に対して「極悪同盟をテレビに出すな」と直談判するようになったそうです。でも、会社側が「誰が会場に客を呼んでいるんだ。ダンプたち極悪同盟だろ!」と一喝してくれたみたいですけど。

【人気絶頂時に抱いていた危機感】

――ブルさんはダンブさんの引退後に「獄門党」を結成。1990年1月4日、WWWA世界シングル王座決定トーナメントで優勝します。それから約3年間、王座を守り続けましたが、「後輩たちに負けてから辞めよう」と発言していたそうですね。

ブル:その王座は、クラッシュギャルズやダンプさんに勝って得たものではないですからね。ライオネス飛鳥さんが引退し、返上したWWWA世界シングル王座の決定トーナメントで、後輩の西脇充子を倒して獲得したベルトでした。単に「年齢を重ねて、先輩が辞めたからチャンピオンになった人」と見られているのではないか、と自信が持てませんでした。

 先輩がどんどん辞めていき、私がトップになってからお客さんが入らなくたった時が一番つらかったです。私は「お客さんが入らないのはトップ(自分)の責任だ」と勝手に考えていましたし、それを克服するのに苦労しました。

 先輩たちに勝ってトップになれたら、覚悟を持ってベルトを堂々と巻ける。だから自分が辞めるのは、後輩やライバルなどに負けてからにしようと思ったんです。そうしないと、トップを託された選手が自信を持ってリングに上がれないですから。

――「獄門党」を結成後、ブルさんは凶器をあまり使用せず、「闘いを魅せるプロレススタイル」に変化しましたね。

ブル:ヌンチャクは使いましたけどね(笑)。反則攻撃ではなく、プロレスでしっかり観客を沸かせたかったんです。

 当時の全女の方針は「悪役は憎まれるだけでいい」でしたけど、毎年の「全日本女子プロレス大賞授賞式」では、MVPとベストバウト賞を絶対に獲ろうと思っていました。ただ、極悪同盟の時に獲得できたのは、ダンプさんとのベストタッグ賞のみでした。

 ダンプさんが活躍している時期には、マスコミ投票でダンプさんがMVPの1位になったことがあるんですよ。ただ、会社が「MVPを悪役が獲るわけにいかない。ギャラを上げるから『なし』にしてくれ」と。その時はダンプさんも「ギャラが上がるほうがいいから」と納得しました。

 結局、極悪同盟ではMVPやベストバウト賞は獲れなかった。それでも私は、悪役でもレスラーだから、いつも「ファンの前で表現していきたい」と思っていました。だから「闘いを魅せるプロレス」をやるようになったんです。

――試合の内容は、獄門党になってからどのように変化しましたか?

ブル:実はダンプさんが現役の時から、ちょっとずつ私は変わっていきました。「極悪同盟とクラッシュギャルズの抗争だけだと未来がない」と感じていたので。

 あまりにも人気がありすぎて、何をやっても会場が沸くんですよ。手や足を上げただけでも、「キャー」と声援が起きる。カッコよくて可愛いベビーフェイスがいて、それをいじめる悪役との抗争しかできない女子プロレスは、これから生き残れないんじゃないか......。そう思ったのが17歳くらいですかね。それからは、悪役だけどレスラーとして認められるための闘いに変えていきました。

(後編:生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」>>)

<プロフィール>
ブル中野

1968年1月8日生まれ、東京都出身、埼玉県川口市育ち。170cm。1983年9月23日に全日本女子プロレスでデビュー。1984年9月13日、全日本ジュニア王座獲得。1984年10月に極悪同盟加入。1985年2月、リングネームを本名の中野恵子から「ブル中野」に改名。クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との抗争で女子プロレスブームを巻き起こした。ダンプ松本やクラッシュギャルズが引退後、WWWA世界シングル王者として団体を牽引した。1993年から1994年にかけてWWFに長期遠征。同年11月、WWF世界女子王座を獲得。1996年に再度アメリカへ遠征。翌年、遠征中に負ったケガによりプロレスラーを引退。今年4月、WWE殿堂入りを果たした。

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