着物の「脱恐竜化」目指す 京都の老舗「小田章」5代目が語る、120年目の事業転換

0

2024年10月26日 09:21  ITmedia ビジネスオンライン

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

ITmedia ビジネスオンライン

小田章/京呉館の小田毅代表

 かつて「2兆円産業」と呼ばれていた着物業界。その最盛期は1974〜75年とされ、業界の市場規模は1兆8000億円から2兆円に及んでいた。その後は衰退の一途をたどり、矢野経済研究所によれば2023年の市場規模は2240億円と、10分の1近くに縮小している。


【その他の画像】


 そんな着物の世界で、1970年代から著名人と精力的にタイアップをしてきたのが、明治末期に京都市で創業し、120年近い歴史を持つ「小田章」(odasho)だ。


 同社は、1978年に人形師の辻村寿三郎と共同開発した「ジュサブロー着物」を発売。異色のコラボとデザインが話題となり、一世を風靡した。5代目の小田毅社長に代替わりしてからは、画家の金子國義とコラボした浴衣や着物ブランドも展開。2023年には、人気ロックバンド「L’Arc-en-Ciel」のhyde(ソロではHYDE)とコラボしたファッションブランド「WaRLOCK」(ワーロック)も立ち上げた。着物をはじめとする和装を現代に進化させる狙いだ。


 小田社長は「ファッション自体が時代と共に移り変わるものなのに、着物文化を不変のものとして守ろうとしていくのは“恐竜”のようだ」と語る。120年近く続く老舗企業は、業界の衰退を、どう見ているのか。いかにして着物を持続可能なものにしていこうとしているのか。小田社長に、生存戦略を聞いた。


●「戦う呉服屋」と言われたメーカー問屋 業界から強い風当たりも


――今でこそ異業種のコラボは当たり前になっていますが、小田章は1970年代からコラボを進めています。


 先々代の頃は、商品の仕入れや展示方法を差別化して、問屋業を営んでいたと聞いています。当時は着物問屋でしたので、着物を仕入れて小売店に卸すのが家業でした。ただ先代社長の小田憲が、着物の制作から販売にまで携わり、オリジナルの着物にこだわる「メーカー問屋」を始めたのです。メーカーでありながら問屋業も手掛けました。


 着物のブランドを自前で立ち上げ、専業の着物作家も社員として抱えていました。今でいう、卸売業者が自社で製品を開発する「プライベートブランド」のようなことを、1970年代に始めたわけです。販売方法も独特でした。展示会などに、商品と専属の販売スタッフ(カラーコーディネーターと称したブランド専属のスタイリスト)を10人ほど派遣して商品を売っていたのです。この売り方を含めて一世を風靡したといえると思います。


 1980年代にはデザイン性にこだわった「DCブランド」がはやりまして、着物業界でこれを始めたのは当社でした。辻村寿三郎という異業種の作家とコラボした商品もヒットさせ、小田憲は着物業界のパイオニアだったと思います。私も、父の姿勢を高く評価しています。


 ただ業界からの風当たりは、相当に強いものがありました。当時の発表会の様子を録音したカセットテープが出てきて、私も聞いたことがあるのですが、全国の小売店からは「こんなものが着物で受けるわけがないじゃないか」と非難囂々(ごうごう)だったのです。しかし、その後「ジュサブロー着物」は一世を風靡していきます。今でもこの着物にこだわる人がいるくらいですね。


――1970〜80年代は業界の市場規模も大きく、勢いがありました。その後、バブル期を経てどのように変わっていきましたか。


 バブル期ならではの事情が重なり、3代目の祖父が亡くなったころに、多大な借り入れができていました。当時はお金を借りることも容易だったんでしょうかね。決して当社の規模で借りられるような額ではなく、加えて将来成長、発展が期待できる市場でもないはずなのに、多額の借り入れができてしまったようでした。その後、バブルが崩壊すると不動産価値も下がり負債だけが残ってしまったわけです。これが私の代の経営にも尾を引いてしまうことになりました。


 不動産価値が下がり、さらにバブル期以降、着物業界も衰退しました。こうした中でバブル期の負債をいかにして返していくか。先代の父と、私にとっての経営課題になったわけです。


 そこでバブル崩壊以降に当社で進めたのが「ジュサブロー着物」以外のコラボ路線だったり、レンタル着物業を始めたり、飲食店の経営に乗り出したり、IT部門に投資をしたりといった経営の多角化でした。


――業界では珍しくIT部門に投資をしたのですね。どんなことに取り組んだのですか。


 1990年代から2000年代初頭くらいでしょうか。Webサイトなどといった言葉すら分からない時代からITには積極的に投資していました。呉服業界でも早い方だったと思います。まず着物のECサイトを始めて、5〜6年は本格的に続けましたが、少し早すぎたのかもしれません。当時「Webで着物は売れるものではないな」と思いました。今では着物のECサイトが増えてきたものの、売れ行きを見ている限りでは「今でも難しい」と判断しています。


 その後もIT部門のチームは残し、2015年にIT事業部を発足しました。そこで当社で20年以上にわたってコラボしている画家の金子國義先生の公式サイトなど、Webサイトの制作業務を請けていました。


――コラボ路線では、辻村寿三郎に加えて画家の熊谷守一(クマガイモリカズ)、X Japanのhide、美空ひばりといった国民的タレントや、ファッションデザイナーのドン小西ともコラボしました。その中でも金子國義画伯との関係は特別なものだったそうですね。


 これまで数々のコラボ商品を展開してきましたが、当社の歴史の中で最も長く続いているのが金子先生とのコラボです。金子先生とは父の代から付き合いがあったのですが、ある日、私が父の代わりに金子先生を接待することになりました。金子先生は非常にユニークな方でした。


 気に入っていただけたのか、以来、金子先生は父ではなく私と積極的に会うようになりました。当時、私はジュサブロー以外に新たなブランドを立ち上げなければと考えていました。親交を深めていくうちに、着物ではなく浴衣からコラボをする話を先生に持ちかけたんです。2000年ごろの話です。


 このコラボ浴衣は、金子先生に付きっきりで制作しました。2週間くらい先生が当社に滞在して、制作していた時もありました。先生は完全に夜型の人だったので、大変だったことを覚えています。しかしそのかいあって、2002年に発売した「金子國義のゆかた」は大ヒット。コウモリをモチーフにした浴衣は特に人気で、同業他社からも似た意匠の製品が出たほどでした。


 その後、金子國義コラボのブランドは、浴衣以外でも2006年に「金子國義のきもの」として着物でも展開し、今でも人気を博しています。常識を超えた金子先生との付き合いは、先生が2015年に亡くなって以降も続きました。息子さんであるSTUDIO KANEKOの金子修代表との親交も世代を越えて続くことになりました。実はこの金子修代表との親交からHYDEさんとの出会いにもつながっていて、今では両者共にビジネスを越えた関係になっています。


●バブル期の負債で数十億円の借り入れ


――バブル崩壊から実に30年以上がたっています。この長期間にわたる借り入れの返済は、金利だけを考えても非常に厳しいですよね。


 借金の返済においては、利益よりも、まず毎月の売り上げが立つことが大事でしたので、とにかくキャッシュフローを回すことが欠かせませんでした。これが、さまざまな事業に進出していた理由でもあります。このバブル期の負債を、ようやく2023年の4月に返し終えました。最後は四条室町にあった自社ビルを数億円で売却したことによって完済した形です。 


 私は2008年に5代目として跡を継いだのですが、就任当初は数十億円近い借り入れがありました。当社のような規模の呉服屋としては、あり得ない負債額です。返し終えた今だからこそ言えますが、毎月7桁は返済していましたから、とにかく月の資金繰りに頭を悩ませていました。当時の売上構成比は呉服が40%、不動産が25%、他の企画が25%、飲食が10%くらいでしたかね。


――バブル期の負債を返し終えて、経営的に変わってきたことはありますか。


 返し終えるまでは飲食業や不動産業など、メインの着物業以外であっても売り上げの立つものは何でも取り入れてビジネスをしていました。2023年4月に完済した後は、その残務処理をしていましたが、その間「当社が本来目指すべきビジネスは何か」「自分が本当に挑戦したかったことは何か」を、ずっと考えていました。今までは「やりたい」と思った事業でも、資金不足で諦めていたこともありました。それが今ようやくいろいろな断捨離をして、本来の業務に立ち返っているところです。


●HYDEとコラボした理由「変わらないために変わり続ける」


――小田章が本来目指すべき道とは何だと考えていますか。


 「ジュサブローきもの」が一世を風靡していた当時、小田章は「戦う呉服屋」といわれていました。旧態依然とした着物業界の中で、さまざまなことに挑戦し続けていたのが父でした。昔ながらのいいものを残すために、守っているだけでは守れないものがあることを、私もよく理解していました。変わらないために変わり続ける姿勢を、父から学んできたのです。


 そしていま注力しているのが、HYDEさんとコラボしているWaRLOCKです。WaRLOCKでは、着物業界が抱える課題にも挑戦したいと考えています。これは5代目の私が一世一代を賭けた「戦う呉服屋」としての小田家が追いかけるべき着物のゴールだと捉えています。


――着物業界の課題を、どう捉えていますか。


 本気で変わろうとしていないのが問題だと思います。もちろん着物を伝統として、そして日本を代表するオートクチュール(高級仕立服)として守っていこうとする動き自体には賛成です。オートクチュールとしての在り方は、当方でもまだ模索していて、当社にその部署も設置しています。


 温故知新は当社の座右の銘です。ただ解決策はその延長線上には存在せず、むしろ、過去の枠を超えたところにあるのではないでしょうか。業界はまだまだ「このまま守りたい」という思いのほうが強く、「このままで何とかなる」と信じているように思います。ただ、私はこのままではうまくいかないと感じています。正しい進化の在り方が問われていると思います。


 「着物の着方はこうでないといけない」という固定概念があったり、業界で働く上でさまざまな国家資格が必要だったり、守ること自体がビジネスになってしまっている面もあります。そうなると着物はますますファッションから遠ざかる一方です。


――意外と知られていませんが、着物を仕立てる「和裁技能士」は厚生労働省の国家資格です。着付けにおいても「着付け技能士」は2010年から同じく厚労省の国家資格になり、より入口が狭くなっていますね。


 着物も他の衣服と同様、本来その着方は自由なものでした。もともと、その人の個性を表すファッションに対して「こうでなければならない」なんていう決まりはないのです。こういった流れが、着物をファッションとしてつまらないものにしています。「お国の力をお借りして守ろう」「伝統産業だからなくさないように守ろう」という考え方自体を否定するわけでもありません。ただ、着物の進化を止めたくないと思うのです。


 私は、必要のない衣服は滅ぶしかないと考えています。例えば、以前は着崩したファッションの代表格とされていたアディダスの服は、今やグッチなどのハイブランドとコラボしています。昭和の時代には、スニーカーを履いてホテルに食事に行くことはありえないことでした。革靴でないといけなかったわけですね。ところが今ではこうしたフォーマルな場でもスニーカーは市民権を得ています。


 こうしたファッション一つをとってみても、20〜30年前の常識が通用しなくなることが当たり前に起きています。これは着物の歴史を振り返ってみても同様なのです。ファッション自体が時代と共に移り変わるものなのに、着物文化を不変のものとして守ろうとしていくのは、さながら“恐竜”のようだと思います。


 もちろん、工芸品や美術品として高く評価して、後世に残していくことは大切です。ただ、それはおしゃれなもの、ファッションとしての産業にはなっていないのではないでしょうか。金子先生もおっしゃっていましたが「締切のない絵」と同じで、それは趣味であって仕事ではないのです。私は、着物を仕事にしていて、常におしゃれなものであってほしい。だからこそWaRLOCKを通して、着物を現代に進化させたファッションにしていきたいわけです。


 借金を完済するまでの間、正直、生きた心地がしませんでした。それでも、ここまで生き残れたのは、周りの方々の支えがあったからです。「今できることを全力でやる」と自分に言い聞かせ、歩みを止めず進み続ける中で、特別な恩人たちが導いてくれました。昨年亡くなった国際文化学園の平野徹理事長のことは兄のように慕っていて、私のことも本当にかわいがっていただきました。89歳でなお現役で活躍し、WaRLOCKの海外進出も母のように応援してくださっている美容研究家の小林照子先生には、尊敬と感謝の念を抱いています。


――小田毅社長は5代目になるわけですが、老舗企業を後世に残す上で何が大切だと考えていますか。


 私には幼い娘しかいないので、むりやりこの会社を継がそうという考えはないですね。もちろん、小田章という企業そのものは存続させたいので「誰に継承するのが最善か」と考えているのが正直なところです。


 理想を言えば、業界外の人に継承してもらいたいと考えています。その人が着物を心から愛していて、急成長を求めるのではなく、形を変えながらでも心を伝えてくれるような方であればうれしい。私のような業界内の人間では、あれもこれも投資するのが難しいため、やはり資本力のある業界外の人の力が必要だと感じています。30年以上にわたるバブル期の負債を完済し、そのための決意がようやく固まったところです。


(河嶌太郎、アイティメディア今野大一)



    ランキングトレンド

    前日のランキングへ

    ニュース設定