元大関・貴景勝「淡々と。それだけを心がけた」 “自分から痛いと言わない男”が引退決断 「気合を持った力士を育ててみたい」【大相撲】

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2024年10月27日 12:04  TBS NEWS DIG

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大相撲九州場所は11月10日、福岡国際センターで初日を迎える。大の里が新大関に昇進して角界の新しいうねりを感じるが、新番付からしこ名が消え、寂しく感じる力士がいる。元大関の貴景勝だ。膝、足首、腕に最後は首と、満身創痍で土俵を務めてきた28歳は、「燃え尽きた」の言葉を残して9月の秋場所で引退。今後は湊川親方として、後進の指導に当たる。

大の里が2度目の優勝を決めた秋場所14日目。同じ国技館の一室で貴景勝が吹っ切れたような表情で話し出した。「小学3年生から夢だった横綱を目指す体力と気力が無くなった」。

7月の名古屋場所で2度目の大関転落を経験。関脇だったこの場所で特例による10勝での返り咲きを目指していたが初日、2日目と連敗。3日目から休場して決断した。年齢を考えれば、早いと感じるファンが多いと思う。だが、最初の大関昇進時に「武士道精神」という言葉を口上に選んだ男は潔かった。

「悔いは全くない。燃え尽きた。素晴らしい相撲人生を歩ませて頂いた。怪我も含めて実力。それで力が出せなかったので、『終わりだな』と思った」

押し相撲を支える首の怪我さえ治せば、力士としての生活も、3度目となる大関への挑戦も不可能ではなかったかもしれない。だが、気持ちで勝負を挑む彼には最終目標である「横綱」への意欲が消滅した時点で、選択肢はなかった。

平成時代初期の小錦、先代霧島らの頃から大関転落後、返り咲きに失敗しても、土俵を務める力士が増えた。今度の九州場所でも元大関経験者は高安、朝乃山、正代、御嶽海、霧島と5人いる。それでも貴景勝は「好きな職業に就かせて頂き、若い頃から100%の準備をして本場所に臨んだ。だが、最近はその準備、戦う前にやるべきことが出来なくなった」と現役を退くことに至った経緯を明かした。

5勝10敗に終わった名古屋場所時点では引退は考えていなかったという。「(引退は)頭をよぎった時にはすべき。名古屋場所では大関から落ちることになったが、まだ自分を信じる自分がいた。『歯車があっていないのかもしれない。また、来場所も勝負』と思った」と話した。

175センチ、165キロ。手足も短く、決して恵まれた体格ではなかった。それでも突き押し一本で、大関以下では魁皇の5度に次ぐ4度の優勝を果たした。押しに徹したのは、埼玉栄高を経て入門した際に、幕内力士の体の大きさとパワーに圧倒されたからだという。「間違った世界に来てしまった。とんでもない世界。みんなと同じでは勝てない。自分は自分のスタイルでやっていくしかないと思った」と当時を振り返った。

師匠から言われなくても、稽古で自分を追い込める数少ない力士だ。驚いたのはあの体重で、上半身のスクワットと呼ばれる自重の「ディップス」というトレーニングも取り入れていたことだ。特別な器具を使う訳ではないが、巡業先などで左右の腰の脇を両手で支え、挙げた足を降ろさない形で肘を曲げ伸ばす。胸、腕、肩甲骨周りを含めた肩が鍛えられ、腕が可動域いっぱいに動かせる。自分の体を最大限に利用して戦っていた。

もちろん、伝統的な稽古も忘れない。本場所前は必ず突き押しの基本である脇を締めて稽古場の隅にある柱をたたく「テッポウ」を入念に繰り返し、動きを確認した。「これをやっておかないと、本場所でうまく押せない」とよく言っていたものだ。

プロとして、力士としての信条は極真空手をやっている父から学んだ。「勝っても喜ばない。負けてもくよくよしない。嬉しくても喜ばない。辛くても辛いふりをしない。相撲は神事だし、淡々と。それだけを心がけた」。その言葉通りに支度部屋では多くを語らず、怪我の言い訳も一度も聞いたことがなかった。

強い責任感を持った土俵態度に師匠である常盤山親方(元小結隆三杉)は「度胸も精神力もある。自分から痛いとか言わない男」と表現。同じ押し相撲だった八角理事長(元横綱北勝海)も、「番付は大関だったが、横綱クラスの活躍をしてくれた。力を出し尽くした」と賛辞を贈った。

角界に入った時は、元横綱の貴乃花親方の部屋だった。ところが、2018年の親方の退職に伴い、師匠同士が兄弟弟子だった現在の部屋へ移籍した。当然、元の親方にも感謝の気持ちはあっただろう。「2人の師匠への思いは」との質問が出たが、その答えはこうだった。

「師匠は常盤山親方です。元々、別の部屋に入ったが、引き取って頂き、きょうまで育てて頂いた。お陰でここまでやってこられた。感謝しています」。恩義に報いるように、現在の師匠のみに言葉を綴った。

「やるか、やられるか。『これで自分の人生が変わる』と思った」という思い出の一番には、勝って最初の大関昇進を決めた19年春場所千秋楽の栃ノ心(当時大関)戦を挙げた。あの頃の貴景勝は頭からのぶちかましと激しい突き押しに加え、横へ体を開いた突き落としや2、3度相手との間合いを空けての攻めが光った。だが、大関になってから膝を痛めるなどして軽やかなフットワークが消えた。結果的に正面からの突き押し一辺倒になっていった。当時の軽やかな足さばきが、その後も維持出来ていたならば、「夢」だった横綱にもさらに近づいていたのではないか、と思う。

初土俵からちょうど10年、60場所。うち半分の30場所で大関を務めた。今後について、「僕が昭和の先輩たちから教えて頂いたこと。今の時代には不向きかもしれないが、根性と気合を持った力士を育ててみたい」と話した。強い信念と情熱を持つ彼は、必ず良い指導者になるに違いない。

(竹園隆浩/スポーツライター)
 

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