セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
五十嵐英樹が語る「ヒゲ魔神」誕生秘話(前編)
抑えと言えば、1イニング──。現在のプロ野球では当たり前の投手起用法だが、セーブ制度が導入された1970年代半ばから80年代にかけては、3イニングも普通のこと。中継ぎを含む勝ちパターン継投が目立ち始めた90年代前半にしても、抑えが2イニングを投げるのは普通だった。その普通を過去のものにした投手が、横浜(現・DeNA)の佐々木主浩である。
自身初の最優秀救援投手賞に輝いた92年、佐々木は全53試合に救援登板して12勝21セーブ。投球回数は87回2/3と、当時はまだリリーフで2ケタ勝つほどに投げていたが、横浜がリーグ優勝・日本一に輝いた98年、佐々木は51試合登板で56回と、ほぼ1イニング限定となって防御率は0.64。1勝45セーブでタイトルを獲った絶対の守護神は「大魔神」と呼ばれた。
ただ、現在の継投策を見ればわかるとおり、抑えが9回だけならば8回、7回の中継ぎが不可欠。その投手たちなくして佐々木の1イニング限定も実現しなかったわけだが、過去にない起用法はいかにして実現したのか。大魔神の前に投げる口髭が際立った男、「ヒゲ魔神」と呼ばれた五十嵐英樹に聞く。入団は大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わった93年だった。
【どうやって一流の選手と張り合うか】
「大洋の最終年、92年は『盛田、佐々木のダブルストッパー』って言われていましたよね。でも、じつは7回、8回を盛田(幸妃)で、9回が佐々木さんという起用法が多かったと。僕が入る前の年なので聞いた話ですが、盛田は最終的に規定投球回を投げてるんですよ、リリーフで」
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同年の盛田は52登板で先発は6試合あり、131回2/3を投げて14勝2セーブ。当時は130試合制なので規定に到達し、2.05で最優秀防御率のタイトルを獲得した。だが本末転倒というべきか、同年の大洋で2ケタ勝利は盛田と佐々木のみ。勝ちパターンというより先発陣の力不足を補う「ダブルストッパー」で、チームは5位に沈んだ。その投手陣に五十嵐は加わった。
静岡・東海大工高(現・東海大静岡翔洋高)から三菱重工神戸(現・三菱重工West)を経て、ドラフトでは3位指名。神戸製鋼の補強選手として出場した都市対抗でその速球が注目されたが、社会人5年目に開花し、1年目には一時的にプロ入りを断念したという投手。まずは自身の立ち位置を明確にすることから始めた。
「プロに行くのはこういう人だ、っていうピッチャーをたまたま間近に見た時、『こんな人にオレはなれんから野球やめよう』と思ったんです。そんな僕でもプロに入ったけど、技術がないから、自分のなかで今のランクは三流か四流ぐらいだなと。そこからどうやって一流の選手と張り合うか、そればっかり考えてました。張り合って、どうにかして、一軍に上り詰めるんだと」
【ケガから復帰後の役回りは敗戦処理】
1年目の93年、五十嵐は一軍昇格と二軍降格を繰り返し、一軍では27試合に登板。敗戦処理から始まり、結果がよければ勝ち試合で投げ、抑えでの起用もあった。2年目からは谷間の先発もあり、3年目には6勝を挙げるも8敗と負けが先行。"便利屋"のような使われ方をする日々が続いた。そのなかで五十嵐自身、「このポジションで投げたい」といった願望はあったのだろうか。
「願望というよりも、自分のなかでは『先発は不向きだな』と思っていました。投げて中6日なら1週間、調整してマウンドに上がるというよりは、いつでも上がれるほうがラクだったんです。自分は怠け者なんで。いろいろと、やるべきことを忘れちゃうんで(笑)」
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半ば必然的にリリーフ専任となった五十嵐だが、大矢明彦が監督に就任した96年には自己最多の46登板で9勝6敗2セーブ、126回1/3で防御率3.38と好成績を残す。すなわち「勝ち試合の中継ぎ」というポジションをつかみ、7月26日からの対広島3連戦では3試合連続救援勝利もあった。だが、8月22日の巨人戦で9勝目を挙げたあと、右ヒジを痛めて離脱してしまう。
「今ではあり得ないですが、その年は先発でも投げていたので......。痛めた時は、朝にヒジが熱くて目覚めたんです。球場に行って、握力計ったら10もなくて。ビール瓶、ジョッキも持てず(笑)。登録抹消されて病院に行ったら『手術の適応じゃない』と言われて、何とか治したんです。でも結局、翌年のキャンプでランニング中、ヒジが動かなくなって......。手術したのは開幕前ですよ」
クリーニング手術ではあったが、長期離脱を余儀なくされた。一方、同年から権藤博がバッテリーチーフコーチに就任。中日、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)で指導実績があり、その手腕に期待がかかっていた。五十嵐自身、数多く学ぶことになる指導者だが、思いのほか術後の経過がよく、早期回復して一軍に昇格した6月、権藤にこう言われた。
「(一軍へ)呼んだけど、最初は敗戦処理からだ」
故障上がりの投手には厳しい言葉だった。つかんだと思ったポジションには盛田のほか、島田直也がはまっていた。それでも腐らず、若手と一緒に練習メニューをこなして登板を重ねると、徐々に大事な場面を任されていく。結果を出すごとに権藤の五十嵐への評価は確実に上がっていた。
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【リリーフで参考になった先発投手の配球】
「権藤さんで勉強になったのは、ストライクを放れてナンボ、ということです。勝負してフォアボールはOKだけど、基本的にストライクを投げられないピッチャーは一軍にはいない。『一軍に上げて使っているのは首脳陣であって、それだけ評価してるんだから、しっかり自分のゾーンで攻めろ』ということはずっと言われました。
当然、攻めるというのは、ただがむしゃらに一生懸命に投げるだけじゃない。そのなかにテクニックがあって、それはバッターとの駆け引きだと。『バッターも人間だから考えてくる。そこの駆け引きをどうやっていけるか考えろ』ってよく言われましたし、『考えるには中継ぎを見るんじゃなくて、先発ピッチャーを見てみろ』っていうことも言われましたね」
短いイニングを投げるリリーフ投手にも、長いイニングを投げないといけない先発投手の配球が参考になる──。先発は不向きと自認していた五十嵐にとっては、特に響く助言になった。さらに権藤がコーチに就任したことで、試合中のブルペンにおける準備の仕方も変わった。
「権藤さんご自身、現役時代に投げ過ぎて肩を壊された方だからだと思いますが、『ブルペンではなるべく球数を少なくいくように』という方針でした。だからまず言われたのは、『スパイクの紐をギュッと締めてブルペンに行くな』と。つまり、実際に投げるまではリラックスして、いざ投げるとなったら紐を締めて、という」
中日入団1年目の61年、権藤は69登板のうち44試合に先発して32完投で12完封。35勝という驚異的な勝ち星を挙げて310奪三振、429回1/3で防御率1.70という数字はすべてリーグトップだった。翌62年も同様に投げて30勝を挙げたが、登板過多によって肩を痛め、短命に終わった。ゆえに指導者となってからは、ブルペンでの球数にも気を配っていた。
「若いピッチャーは、よく権藤さんに怒られてました。たとえば、準備しなくていいところで準備して、いざ『準備しろ』と言われたら動くのが遅かったり。ベンチから何も言われてないのに、勝手に『次には自分かな』と判断して投げ始めたり。そういうピッチャーがいるとわかれば、権藤さん、ベンチから走って来て思いっきり叱った時もありました(笑)」
細かい部分まで指導した権藤のもと、投手力は向上。野村弘樹、川村丈夫、三浦大輔、戸叶尚という4人全員が10勝を挙げ、佐々木は3勝38セーブで4度目の最優秀救援投手賞。"マシンガン打線"とかみ合い、チームはヤクルトと優勝を争って2位に浮上する。オフには権藤が監督に就任して頂点を目指すことになるが、翌98年2月、五十嵐は右ヒジの故障が再発してしまった。
(文中敬称略)
後編につづく>>
五十嵐英樹(いがらし・ひでき)/1969年8月23日、大阪府出身。東海大工高から三菱重工神戸を経て、92年のドラフトで横浜から3位指名を受け入団。1年目からリリーフで27試合に登板し、2、3年目は先発もこなした。98年は佐々木主浩につなぐセットアッパーとしてリーグ優勝、日本一に貢献した。2001年の引退後は球団職員として、スコアラー、プロスカウトなどを歴任。プロ通算245試合登板、32勝28敗9セーブ、防御率4.13