ブル中野より先にアメリカで人気爆発 全女のタッグチーム「JBエンジェルス」と元東スポ記者が語り尽くす

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2024年11月13日 07:21  webスポルティーバ

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プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(9)

(連載8:ビューティー・ペアは全女のリングを歌でも盛り上げた 不仲説の真相も>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第9回は、全日本女子プロレスで「ジャンピング・ボム・エンジェルス(JBエンジェルス)」として活躍した山崎五紀と立野記代。今年、日本人女性初として「WWEホール・オブ・フェーム」殿堂入りしたブル中野より先に、アメリカで成功を収めた日本人女子レスラーについて聞いた。

【"女子プロレス界の聖子ちゃん"】

――のちにクラッシュ・ギャルズを結成する長与千種さんやライオネス飛鳥さん、ダンプ松本さんなどが1980年にデビューしましたが、翌1981年にデビューした山崎五紀さんや立野記代さんの印象は、いかがでしたか?

柴田:ふたりは1984年にJBエンジェルス(=ジャンピング・ボム・エンジェルス)を結成しましたが、なんでもできました。すごくポテンシャルが高くて運動神経もずば抜けていたし、試合のテンポもいい。男子のジュニアヘビー級のようにスピードもあって、ふたりの連携技の完成度もすばらしく、タッグチームとして完成度も高かったです。

 WWF(現WWE)にも参戦しましたが、それがウケたんでしょう。当時のアメリカでは、現在とは違って女子プロレスは"前座のイロモノ"というような扱いでした。そこで黒髪で小柄な、オリエンタルな少女たちがレベルの高い試合をするんですから、インパクトは大きかったでしょうね。

――立野さんは"女子プロレス界の聖子ちゃん"というあだ名でしたよね。

柴田:松田聖子さんに似ていたからね。立野はデビュー2年目の1982年8月、長与が持っていた全日本ジュニア王座に挑戦してタイトルを獲得。初代王者がジャガー横田、第2代王者が北村智子(ライオネス飛鳥)、第3代王者が長与千種、そして第4代王者が立野記代となりました。この全日本ジュニア王座は若手の登竜門的なタイトルで、のちにブル中野や北斗晶も戴冠しています。

【ベビーフェイスに転向して立野とコンビを結成】

―― 一方の山崎さんは、デビュー当時はヒール(悪役)でしたよね。

柴田:デビル雅美率いる「ブラック・デビル(デビル軍団)」の一員でした。若手時代から凶器攻撃も駆使していたし、肝が据わっていました。1984年にデビル軍が解散すると、山崎はベビーフェイスに転向して立野とコンビを結成。クラッシュ・ギャルズの二番手的な人気を獲得して、極悪同盟とも抗争しました。

――1986年1月にチーム名が「JBエンジェルス」になり、『CHANCE×3』でレコードデビュー。TBSの学園ドラマ『夏・体験物語2』にも出演するなど人気を獲得しました。

柴田:最初はタッグ名が「フレッシュ・コンビ」でしたが、改名してよかったですね(苦笑)。昔は安直なタッグチーム名もありましたから。横田利美(現・ジャガー横田)と塙せい子の「ヤング・ペア」も、トミー青山とルーシー加山の「クイーン・エンジェルス」などのチーム名に比べると、「期待の度合いが違うな」と思ってしまいます。

 1985年12月、長与のケガでクラッシュ・ギャルズがWWWA世界タッグ王座を返上。1986年1月にJBエンジェルスとブル中野&コンドル斉藤の間で王者決定戦が行なわれ、JBエンジェルスが戴冠した。でも長与がケガから復帰したあと、同年3月にはWWWA世界タッグ王座から陥落しました。

――アメリカ遠征したのは、そのあとでしたね。

柴田:そうですね。1987年6月から日本とアメリカを行ったり来たりでした。WWFからは長期遠征や完全移籍のオファーがあったけど、全日本女子プロレスの松永兄弟が本人たちの意向を無視してダメになって。それで一時、全女とWWFの関係も悪化しました。

 アメリカではWWF世界女子タッグ王者「グラマー・ガールズ(レイラニ・カイ、ジュディ・マーチン組)」のライバルとして抗争を展開して、1988年1月にはグラマー・ガールズを破って王座を獲得しました。とにかく技のクオリティが高かったから、男子レスラーたちが全員JBエンジェルスの試合を観ていたらしいですよ。

 当時の日本人女性としては、プロゴルファーとして本格的にアメリカツアーに参戦していた岡本綾子と同じくらい認知されていたと思います。アメリカでもCMに出演していましたからね。

【日本人レスラーの"拠点"となった「GOレストラン」】

――ブル中野さんも1993年から米国のWWFに参戦しましたが、その先駆けだったんですね。

柴田:JBエンジェルスは日本よりアメリカでのほうが有名だったかもしれませんね。今のようにSNSもない時代ですから、活躍ぶりはあまり日本に伝わって来なかったけど、現地では大人気でしたよ。今年、ブル中野がWWEホール・オブ・フェーム(殿堂)入りしたけど、JBエンジェルスが松永兄弟の意向を無視してそのままアメリカで活動していたら、表彰されたかもしれませんね。

――現在、山崎さんはニューヨーク在住だそうですね。

柴田:"水が合った"んでしょうね。全女で山崎の引退試合が行なわれたのは1989年5月14日でしたが、相手はパートナーの立野で「最後のJB対決」でした。その後、ジャパン女子プロレスで現役復帰して、1991年に結婚を機に引退。ご主人は腕のいい料理人で、夫婦で「GOレストラン」という飲食店の経営を始めましたが、ブル中野もアメリカ遠征時は「GOレストラン」や山崎ファミリーにお世話になったんじゃないでしょうか。

 そうそう、タイガー服部(日本のプロレスの元レフェリー)の息子も「GOレストラン」で働いていたんですよ。また、シリーズオフのたびに渡米していた西村修など、日本人レスラーが必ず顔を出す場所として有名で、「ニューヨークコネクション」と言われていました。

――立野さんは1991年に全女を引退した後、全女が経営していたカラオケ店「しじゅうから」で店長などをやって、1992年8月に旗揚げしたLLPWに参戦しています。

柴田:ジャパン女子プロレスは解散したあと、JWP女子プロレスとLLPWに分裂。LLPWは女子プロ界では世界初の代表取締役社長兼現役レスラーとして風間ルミが就任し、神取忍も合流しました。男子だとアントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんらが社長兼レスラーを務めたけど、当時はまだ、女性の社長兼レスラーに対する風当たりも強くて、苦労も多かったと聞きます。

 立野記代がLLPWに参戦したのは、完全燃焼していなくて「もう1回リングに立ちたい」という思いがあったんだと思います。いつの間にか全女の「25歳定年制」も消えていましたし。松永兄弟は「お嫁に行けなくなるから、という親心で25歳定年制と決めた」と言っていましたが......今では完全にアウトな表現ですが、どうやら理由はそれだけではなかったようです。

 入門当初は10代が多いレスラーたちも、年齢を重ねてベテランになるといろいろとわかってきて、ギャラや待遇面で文句を言ったり抗議してきたり、うるさくなるから25歳までとしたという側面もあったという噂です。当時の全女は「批判は一切受けつけない、嫌ならやめろ」という感じでしたから......。

 だから期待されてデビューしたスター候補生の、岩井和子や高橋三奈などがすぐにやめてしまった。特に岩井はハッキリものをいう性格だったからか、デビューわずか2カ月で退団。とにかくすべてにおいて、今なら問題だらけの常軌を逸した世界でしたね。

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として『夕刊フジ』などで連載中。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

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