連載 怪物・江川卓伝〜田尾安志だからこそ知る大エースの弱さ(前編)
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現役時代は中日、西武、阪神でプレーし、楽天の初代監督も務めた田尾安志は、プライベートでも家族ぐるみの付き合いをしている江川卓のことを愛でている分、どこが憂いを感じていたこともあった。
「僕が大学4年で、江川が大学2年の時に初めて会って以来の付き合いで、現役でやっている時はなかなか接触できなかったんですけど、お互い引退してからはよく食事に行ったりしています。関西まで家族と一緒に来てくれたりするようなお付き合いをさせてもらっているんですけど、現役の時には気づかなかった江川の弱さを見ることもありました」
【10年目をやろう思えばできたはず】
1975年6月、初めて日米野球の日本代表に選出された江川は、多士済々の先輩たちの振る舞いを見て、「この人なら」と思い、自ら歩み寄って仲良くしてもらったのが田尾だったという。
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そんな田尾は江川について、こんな印象を持っていた。
「怪物とか騒がれていましたけど、案外、繊細すぎる部分があるって感じました。かつて江川がMCをやっていた番組で草野球チームをつくったんです。江川が監督で、僕がヘッドコーチ。草野球なのに、『田尾さん、この場面どうしましょうか?』ってよく相談されて、すごく繊細だなって思った記憶があります。相手チームのエースという感覚で見ていたときと違うものを、プライベートで付き合いだしてから感じたんですよね。だからもし、この繊細さがなければ、もっと現役をやっていたんじゃないですか」
田尾が言う"弱さ"は繊細さを指すのだが、もちろんピッチャーである以上"繊細さ"は必要不可欠な要素である。しかし繊細さばかりを追い求めてしまうと、ピッチャーとして成立しない。繊細さと大胆さがかみ合ってこそ、投手の型が整えられる。
田尾は、江川の繊細さから生まれる気遣いこそが、プロ野球人生において災いしたのではないかと分析する。
「やっぱり入団時のしこりはずっとあったと思いますよ。現役最後となった1987年は13勝5敗の成績を残して引退。肩の状態がよくなかったことが理由だけど、本気で10年目をやろうと思ったらやれたはずです。一度電話で『まだやれるだろう』って言ったことはあるんですけどね。本人が言うには、『入団時の経緯がたとえ自分の意思ではなかったにせよ、周りはそういうふうに見ているため、恥ずかしい成績は絶対に残せない』と。そういう強い気持ちを含めて話した記憶があります。
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入団1年目だけ9勝10敗でひとつ負け越しましたけど、あとの8年はきっちり、2勝1敗のペースで終わっていますからね。それくらいの成績を出す自信がなかったら続けられないんだって、本人がラインを引いていたんじゃないですか。僕らには想像できないところでの葛藤や苦しみがあったんだろうなっていう気がします。もっとふつうの野球人生を歩んでいたら、江川のよさがもっともっと出たのかなと」
何十年にわたって家族ぐるみの付き合いをしている田尾だからこそ知る、江川の心の内なのだろう。
【田尾安志が語る衝撃の江川攻略法】
なにより田尾にとって、グラウンドでの江川はやはり特別な存在だった。
「プロに入って、真っすぐで驚いたことは一度もない。野茂英雄も佐々木主浩も打席に立ちましたけど、『この程度か......』っていう感じ。それらと比べると、江川の真っすぐの伸びはちょっと違いましたね。ひとり飛び抜けていました。
江川は、僕が高めの球を苦手にしているのを知っていた。だから、基本インハイに来るのはわかっていて、それを打ちたくて何度もトライしたんですけど、江川の状態がよかったらなかなか打てません」
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バッテリー間の18.44mで、ピッチャーがリリースしてからキャッチャーに到達するまでの時間は、球速145キロでおよそ0.4秒。目で視認したものが脳に伝わり、筋肉が収縮動作を起こすまで約0.3秒かかると言われている。そのわずかな時間のなかで、どうやって打つのか。
プロの一流バッターというのは、ボールを点で捉えるのではなく、あくまで球の軌道を想定してアジャストするのだ。つまり、予測する軌道がずれると空振りする。江川のストレートはまさに予測不能だったため、打者は空振りしてしまうのだ。
「とにかく江川は、調子のいい日と悪い日がはっきりしているピッチャーでしたね。僕なりに攻略法を見つけたんですけど、江川を打つには得点圏にランナーがいないときにホームランを狙うこと。得点圏にランナーが進むと、気合いの入り方がガラッと変わる。だからランナーのいないときがチャンスで、そこでヒットじゃなく、ホームランを狙いにいくぐらいの気持ちでいかないとダメ」
70年代から80年代、中日の主砲として活躍した谷沢健一も同じようなことを言っていた。江川を打つには、ホームランを狙うつもりでいかないと球威に圧倒されてしまうという。ミートに徹する打法ではなく、あくまで強く振り抜いてピンポイントで狙う。
「江川はきれいなスピンの効いたストレートを投げるから、ボールが伸びてくる。僕は、いくら速くても振り遅れるってことを感じたことはない。だからミートするポイントは間違ってないんですけど、普通のピッチャーだとここだってところが、江川の球はもっと上に来ているってイメージですよね。だから厄介なんです」
1981年から84年まで4年連続3割を超え、82年には長崎慶一(大洋)と壮絶な首位打者争いをして3割5分の高打率を残した田尾と江川の全盛期が被っているだけに、互いに高い次元でプライドをかけて対決していたのは間違いない。
田尾は江川の球を厄介だと思う反面、自身の状態がいいときは対決が待ち遠しいと思っていた。それは一流のバットマンだけが知る、壁が高ければ高いほど己の技術を試せる悦びに変わっていくからだ。田尾にとって江川は、まさにそびえ立つ高い壁だった。
(文中敬称略)
つづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している