元大阪桐蔭・峯本匠インタビュー(前編)
今年も笑顔あり涙ありのドラフトが終わった。指名を受けた支配下69人、育成54人の計123人が、プロ入りのチケットを手に入れたことになる。狭き門だが、もしあの時、プロ志望届を提出していれば、はたして何位で指名されていたのか......。そう考えてしまう選手も少なくない。
峯本匠も、そのひとりである。
【藤浪晋太郎からホームラン】
2014年。「天才」と評されたバットコントロールで安打を量産し、大阪桐蔭の全国制覇に貢献した。あの夏から10年。今は、「JFEスチール株式会社 東日本製鉄所」(千葉県千葉市)でサラリーマンとして新たな人生を過ごしている。
2年前の2022年10月に現役を引退。配属された工程部千葉工程室で、製造から出荷までの計画を立案し、工場と連携を取りながら、注文どおりに納入するための生産管理業務の一翼を担い、日々目を光らせている。
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「それまではパソコンも触ったことがなく、本当に無知でしたね。配属されて最初の2、3カ月はずっとパソコンの前に座って、出社するのがしんどい日もありました。ただ、自分のいる部署は野球部のOBも多く、一から優しく教えてくれて、最近は徐々に慣れてきて、任されることも多くなってきました」
兵庫県伊丹市出身。幼稚園年中から野球を始め、その才能は中学で花開く。坂本勇人(巨人)がかつて所属していた強豪の伊丹シニアで1年からレギュラーを獲得。当然、関西の有力高校から声をかけられ、忠岡ヤングに移籍した3年時に、大阪桐蔭への進学を決断した。
「中学の頃が一番すごかったと思います。『本塁打打ってくるわ』って言って、本当に打ったりしていましたね」
大阪桐蔭でのスタートは衝撃的だった。2012年4月4日。16歳の誕生日に行なわれた入学式を終え、寮へと帰り、テレビをつけると、エースの藤浪晋太郎(メッツ傘下3A)や森友哉(オリックス)ら、これから先輩になる選手たちが躍動している。センバツ大会を制し、春初優勝を飾ったシーンは、今でも瞼に焼きついている。
「正直やばいなと思いました。その時は先輩たちがいないので、優勝したという実感は湧きませんでしたが、次の日にはテレビで見た人たちが普通に寮にいるじゃないですか(笑)。同級生も中学で有名な選手がいっぱいいたので、『どえらいところに来てしまったな』と思いました」
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ただ、172センチと小柄ながらもセンスあふれる動きが西谷浩一監督の目に留まり、レギュラーメンバーが中心のAチームに抜擢された。シート打撃では、藤浪から逆方向の左中間に本塁打を叩き込んだこともある。1年夏のベンチ入りこそ叶わなかったが、甲子園では、翌年の中心選手が指名されるボールボーイの大役を務め、グラウンドレベルで春夏連覇の瞬間を体感した。
「藤浪さんから打ったことで、株が一気に上がったんだと思います。当時は足もそこそこ速かったですし、バッティングもよかったので、そこでアピールしていきました」
高校ではそれまで未経験の二塁を任された。最初は「ゲッツーの取り方もわからなかった」というが、コーチとの居残り練習などで徹底的に鍛えられ、新チームでは背番号14ながら二塁のレギュラー格となり、秋の府大会を2位で通過すると、近畿大会で背番号4に昇格。4強入りを果たし、翌年センバツへの出場切符をたぐり寄せた。
甲子園のデビューも鮮烈だった。2年春、遠軽(北海道)とのセンバツ初戦、初回の初打席で中堅へランニング本塁打を放つなど2安打2打点デビュー。同年夏の甲子園も出場し、明徳義塾(高知)との3回戦で好投手の岸潤一郎(西武)から、またも初回に中堅へ2季連続となるランニング本塁打をマークした。
「単打を意識して、基本はフライを上げないようにしていました。内角が苦手だったので、常に外の球ばかりを狙って逆方向に打っていました」
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決して大振りをせず、つなぎの意識を保てたのは、3番に主将の森友哉が控えていたからだ。同じ左打者で、身長もほとんど変わらないが、「別格すぎて、真似したらおかしくなっていたと思います」と真顔で言う。
「僕が中学の時にやっていた予告本塁打を、森さんは高校で、しかも公式戦の大事な場面でやるんです。ミート力もすごいし、バッティングに関してはすごすぎて参考になりませんでした」
【履正社に屈辱のコールド負け】
夏が終わると、いよいよ自分たちの代となった。5季連続甲子園に向け、下級生から試合に出ていた香月一也(オリックス)らとチームを引っ張る責任感が芽生えていた。しかし、蓋を開けてみれば、秋の府大会4回戦で、ライバルの履正社に1対13で5回コールド負け。野球人生で初めて経験する、屈辱的な大敗だった。
「高校野球がこれで終わるとういう危機感がありました。本当に長い冬でしたね」
冬場はスピードアップをテーマに掲げ、持ち味の俊足に磨きをかけた。足腰の強化は、打撃面に好影響を及ぼす。練習では得意の外角球を引っ張り込み、打球は右翼フェンスを軽々と越えるようになった。スイングスピードも速くなり、持ち味の広角打法はさらに洗練されていった。
「試合の時は、内角はファウルにしていました。調子が悪いと、絶対一塁ゴロになっていたので、そこで自分の調子がわかりました。基本はアウトコースも全部引っ張りにいっているイメージ。右中間に引っ張りにいったのが、左中間へいくという感覚です」
半年間の猛練習は嘘をつかなかった。3年春の府大会決勝で履正社を8対5で下し近畿王者へ駆け上がると、夏の府大会も準決勝で再戦し、6対2で返り討ち。決勝でもPL学園を9対1と寄せ付けず、2季ぶりの甲子園出場を決めた。
夏の甲子園、準決勝の敦賀気比(福井)戦では大逆転劇を演出。初回に5点を先制されるも、2回に平沼翔太(西武)から中堅左へ同点2ランを叩き込んだ。全5打席で出塁するなど、3打数3安打3打点5得点。15対9の壮絶な乱打戦で聖地を縦横無尽に駆け回った。
終わってみれば、全6試合で22打数11安打、打率.500で2年ぶり全国制覇に大きく貢献し、U−18日本代表にも選出された。もちろん、プロからも注目される選手となったが、東京六大学リーグの立教大から誘いがあったため、志望届は提出せず、早々に進学を決断していた。プロ入りに心は傾かなかったのか。
「あの時、志望届を出していれば、プロには行けたんじゃないかとは思っています。ただ、藤浪さんや森さんという即戦力のドラ1を間近で見て、プロはこういう人たちが行くものだと思っていて、高卒でプロはまったく考えになかったです。3年夏に活躍したというのも、遅かったですよね」
同僚の香月はロッテから5位指名を受け、プロ入りの夢を叶えていた。自身も4年後に続くため、進学の道を選んだ。が、気持ちがついてこない。
「半分燃え尽き症候群みたいな感じになって......」
16歳の春とは環境も心境も変わり、野球から距離を置くことさえ考えていた。
つづく>>