最近翻訳された『ウラジーミルPの老年時代』(訳・梅村博昭、出版・共和国)という小説を興味深く読んだ。無名に近いマイケル・ホーニグという英語作家による、2030年代のロシアを舞台にした近未来小説である。
ウラジーミルPとは、長らくロシアの大統領の座にいて権力をほしいままにした人物(モデルはすぐに察せられよう)。しかし、認知症の症状が進み、6年前に辞任して別荘に引きこもっているという設定だ。物語は主に、ウラジーミルの身のまわりの世話をしている介護士シェレメーチェフの視点で描かれている。社会全体に賄賂、横領、暴力がはびこっているにもかかわらず、シェレメーチェフは一度もそうしたことに手を染めたことがない「聖人」のような人物である。主人公が誠実で忠実な僕(しもべ)というところは、カズオ・イシグロの『日の名残り』の執事スティーブンスを連想させる。
ところが、弟の息子がブログに体制批判を書きこんで逮捕され、巨額の賄賂を工面しなければならなくなると、シェレメーチェフは、老いた病人への憐憫(れんびん)の情と、ロシアを汚職まみれの暗黒の社会にした元凶である元大統領への憎しみに引き裂かれる。そして、ついにウラジーミルの高級腕時計を盗みだし、あろうことか、ギャングの世界にどっぷり漬かっている自分自身の息子と鉢合わせするのである。
このあたりから物語のテンポは速くなり、息もつかせぬ目まぐるしい展開を見せる。健忘症が激しく時にシェレメーチェフのこともわからないウラジーミルが、幻覚で見るチェチェン人の生首と取り違えて彼に柔道の技を仕掛けたり、別荘内での料理人と家政婦の勢力争いが殺人事件にまで発展したりと、さまざまなエピソードやパロディーを織り交ぜながら、物語は、強烈な風刺と戯画とユーモアをちりばめて大団円を迎える。
「痴呆(ちほう)症」の最高権力者を描いた作品といえば、ロシアの作家ヴィクトル・エロフェーエフの短編「馬鹿(ばか)と暮らして」(沼野充義・沼野恭子編訳『ヌマヌマ』所収)がある。こちらは、何かの「罰」として、狂人レーニンを引き取らなければならなくなった主人公が、世にもおぞましい日常を経験させられるという内容で、神格化された偶像を徹底的に破壊したポストモダン小説だが、この中のレーニンも、『ウラジーミルPの老年時代』の元大統領Pも、ウラジーミルという名前で、「ヴォーヴァ」と愛称形で呼ばれている。これははたして偶然なのか。それとも、ロシアの歴史の反復性を暗示しているのか。
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ちなみに、晩年のレーニンの料理人を務めていたのは、なんとウラジーミル・プーチン現大統領の父方の祖父スピリドン・プーチンだったという。まるで、みずからの尾を噛んで環となった蛇ウロボロスを見ているような眩暈(めまい)に襲われそうだ。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 47からの転載】
沼野恭子(ぬまの・きょうこ)/1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に「ロシア万華鏡」「ロシア文学の食卓」など。
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