『光る君へ』九州へと旅立つまひろは医師・周明と再会なるか、そして外道ぶりに歯止めがかからない道長の業

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2024年11月24日 15:01  日刊サイゾー

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藤原道長を演じる柄本佑

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』、前回・第44回「望月の夜」のハイライトといえば、やはり藤原道長(柄本佑さん)が自分の娘たち3人で天皇家の三后のポストを独占し、それを祝う宴の中で「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌が詠まれたシーンだったでしょうか。

 しかし、それも一同が声を揃えて呪文のように唱えるだけの謎演出で、華やかというより不気味に終わり、あまりの肩透かしにガッカリしてしまいました。

 現在でも皇室の新年行事のひとつに「歌会始」がありますが、披露される歌には独特の節を付け、朗唱されることをご存知の方もおられるでしょう。これを「披講(ひこう)」と呼び、和歌の流派ごとにさまざまな様式が存在しています。

 道長が生きた平安時代後期、どのような節回しで披講が行われていたかはよくわかっていませんが、史実の「望月の夜」の宴で詠まれた「この世をば」の歌を皆で唱和したという場面は、ドラマのように薄暗がりから響く暗黒魔法の集団詠唱のごとく不気味な印象では決してなかったでしょう。

 ドラマの宴は、道長の嫡男・頼通(渡邊圭祐さん)が新しく摂政(幼少もしくは病中の天皇に代わって政治を執る役職)になったことも祝う趣向でしたね。これは道長が頼通に摂政の座を譲ったからなのですが、約1年間も本作を見続けてきた者としては、ついこの前まで「まひろとの約束」と称し、「政治の頂点に立ち、この国を変えてやる」と意気込んでいたはずの道長が実にあっさりと朝廷政治のトップの官職を手放す展開には拍子抜けでした。

 満月を見上げる道長とまひろ(吉高由里子さん)が、かつて廃屋で密会した日の夜空の月を思い出していたので、「少女漫画的」という感想もありましたが、この二人も煮えきらぬうちに終わってしまうようですね。

 個人的な意見でもありますが、少女漫画、あるいは女性向け漫画といえば、世間的には許されない関係、他人からすればふしだらな行為でさえ美化して描けるメディアだったのではないでしょうか。『光る君へ』も、もっとこういう点に踏み込んでいただきたかった気がします。平安時代は、日本史の中では数少ない、女性が性愛の自由を謳歌した時代だったといえますから。

 政治的な部分を史実で補足すると、道長は長年務めてきた左大臣の職と並行し、長和4年(1015年)には闘病中の三条天皇(木村達成さん)の政治指南役として准摂政、さらにその翌年には譲位した三条天皇に代わって即位した後一条天皇(道長の外孫・橋本偉成さん)の摂政となったのですが、早くも翌年には摂政を辞し、太政大臣となっています。

 太政大臣とは「太政官(≒朝廷)の最高の官職」などといわれますが、名誉職的な性格が強く、史実ではすでに持病の糖尿病の悪化に苦しめられていた道長が、ついに頼通に権力を譲って引退フェーズに入ったことを意味します。

 またドラマでは取り上げられませんでしたが、長和5年(1016)7月には道長がもっとも好んだ屋敷の土御門第が、そして9月には次女・妍子(倉沢杏菜さん)が里帰りした時のための屋敷として建てられた枇杷殿が連続して火事に見舞われ、焼け落ちるという大事件が起きました。しかし、道長の口利きで国司になれた金満家の中級貴族たちが、莫大な私財を争うように献金してくれたおかげで、またたく間に御殿は新築されたのでした。

 こうした経緯があったものの、それでも「望月の夜」の宴までの道長は「わが世」は「望月」のようだ!と言い切るパワーを残していたのですが、その直後から彼の健康状態は悪化する一方で「胸病」や視力低下に苦しめられ、ついに寛仁3年(1019年)3月に出家しています。しかし、7月には蓄えこんだ巨万の私財を自邸に隣接した無量寿院(法成寺)の建築につぎ込みはじめます。建築はもっとも金がかかる趣味といいますが、平安時代の貴族階級にとっては、自分の墓の代わりに豪勢な寺を建て、そこで極楽往生を願いながら逝去するのが王道の「終活」なのです。

 しかしそこは最後まで藤原道長らしいというか、その建築資材のうち、入手が容易ではなかった巨大な礎石については公の建物から奪い取らせているんですね。藤原実資(秋山竜次さん)によると羅城門や神泉苑といった国家施設から、次々と礎石が運び込まれていったそうです。まぁ、羅城門は当時の時点ですでに倒壊していたので、多少の考慮はされたようですが、本当に史実の道長は最後まで外道ぶりに歯止めがかからない困ったちゃんだったと言わざるをえません。こうして費用を浮かせることができたぶん、寺の柱には極めて貴重だった香木が惜しげもなく使われ、その屋根には高価な緑色の瓦が敷き詰められたのだとか……。

 また、道長は「この世をば」の歌の中で「自分の権勢には欠けたところがない」と豪語したわけですが、たしかに彼がいわゆる摂関政治の頂点に立った人物であることは間違いありません。しかし、摂関政治とは自分の家族の女性――自分の姉妹たちや娘たちを次々と天皇家に入内させ、彼女たちが授かった皇子たちの誰かを天皇に即位させ、自分はその幼い帝に代わって政治を思うままに操るのですが、そもそも娘たちに恵まれない場合はまったくシステムとして機能できないわけです。

 頼れる姉・詮子(吉田羊さん)がいたり、彰子(見上愛さん)をはじめとした優秀な娘たちが数多くいた道長とは正反対に、彼の後継者・頼通には娘が少なく、その娘たちも天皇との間に皇子を授かることができませんでした。

 つまり、道長が築きあげた「御堂関白家(=道長の子孫たちのこと)」の栄華は、満月となったとたんに欠けてゆく空の月同様、ごく短期間のうちに色褪せ、失われていったのです。

 ドラマでは藤式部ことまひろが、『源氏物語』の続編にあたる「宇治十帖」を執筆しているようですね。「宇治十帖」の主人公の一人で、光源氏の息子である薫――実は中年期の光源氏が迎えた少女妻・女三の宮が別の男と通じて産んだ子は、源氏とは正反対の堅物だったのですが、それと同様、道長のような豪放さを頼通は持ちませんでした。もちろん頼通は道長の実の息子ではあったのですが……。

 さて、次回からはドラマのまひろが京都を離れ、旅に出るというドラマオリジナルの展開となりそうです。いちおう紫式部(だと考えられる人物)の最後の記録といえるのが、寛仁3年(1019年)正月(1月)5日、藤原実資の日記『小右記』なんですね。ここで彰子のもとを訪ねた実資の対応をした紫式部と思われる女房が、「昔はよくおいでくださったのに、最近はさっぱりですわね」という彰子からの伝言を実資に伝えたとされています。

 それゆえ、この頃に紫式部は亡くなったのではないかという説もあるのですが、ドラマのまひろは京都を出て九州に旅立つようですね。ドラマの中盤、越前でまひろと出会い、いい感じになったものの、喧嘩別れ(脅迫別れ?)で終わった宋人医師――実際は宋の人々に助けられ、育てられた日本人の周明(松下洸平さん)が「鎮西(=九州地方)の人々」として、『光る君へ』の公式ページの人物関係図に登場していました。

 この前から最終回間近の『光る君へ』のフィナーレとして、大宰府の役人たちが女真族の海賊たちと戦った「刀伊の入寇」を取り上げるのではないかという話をしてきたわけですが、ドラマでは主人公・まひろが九州地区で周明との再会(とおそらく恋の再燃)を遂げ、戦というものを自分の目で見る……という展開になるのではないでしょうか。

 ちなみに史実の道長は、外国勢力による日本侵略である「刀伊の入寇」の際には、朝廷を積極的に動かそうとせず、おざなりで消極的な対応を繰り返すだけでした。それだけ晩年の道長の政治に対する熱意が低下していた証しかもしれませんし、そもそも政治家としての道長にはビジョンなどなく、ただ朝廷における政治抗争をやりたかっただけであり、それしか才能がなかった人物といえるかもしれません。

 しかしドラマは紫式部の晩年がまったくの謎であるという「史実」を逆手にとって、最終回までは完全オリジナルの展開に突入するようです。華やかな映像とは裏腹に地味な印象しかなかった最近の『光る君へ』ですが、最後に一花咲かせてくれそうで楽しみになってきました!

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