サッカー天皇杯決勝 57回目の観戦となったベテランジャーナリストが綴る長い歴史

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2024年11月26日 07:21  webスポルティーバ

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連載第25回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回のテーマは天皇杯決勝。後藤氏の初観戦は1966年度の東洋工業vs早稲田大学。「実業団対大学」の構図でした。そこから104回を数えるこの大会の長い歴史を振り返ります。

【今年は71大会ぶりの関西勢対決】

 ガンバ大阪対ヴィッセル神戸の天皇杯決勝は、いわゆる「決勝戦らしい試合」だった。両者ともに慎重で、互いに守備意識が上回ったためビッグチャンスはなかなか生まれず、にらみ合いのような状態が続いた。

 G大阪にとっては宇佐美貴史の欠場は大きな痛手だったが、前半はサイドハーフ(SH)倉田秋とサイドバック黒川圭介の左サイドが頑張って、酒井高徳、武藤嘉紀という神戸のストロングポイントに対してむしろ優勢に試合を進めた。だが、神戸の堅守を破るには至らず、無得点に終わる。

 神戸は、自らの力でこうした膠着状態を打開した。後半に入って次第に酒井、武藤の右サイドが力を発揮しはじめると、吉田孝行監督も動いた。

 左サイドに佐々木大樹を入れ、それまでSHだった宮代大聖を大迫勇也と並べてツートップ気味に変えたのだ。これで攻撃の圧力はさらに強まり、交代からわずか5分後、GK前川黛也のロングボールに佐々木が絡み、こぼれ球を無理な体勢ながら大迫がつなぎ、武藤が持ち込んで入れたクロスのこぼれ球を宮代が蹴り込んで先制。

 得点に絡むべき選手がすべて絡んだ、神戸らしいゴールだった。

 その後、G大阪が交代を使って反撃を仕掛けようとするが、神戸は次々と交代カードを切って守備を固めて逃げきった。決勝戦らしいのと同時に、堅守速攻型の両チームらしい試合だった。

 ところで、関西勢同士の決勝戦は1953年の第33回大会以来なんと71大会ぶりだった。全関学対大阪クラブ......。この時は会場も関西、京都市の西京極だった(当時は、毎年持ち回りで行なわれていた)。天皇杯が全日本選手権の優勝チームに与えられるようになってから3回目の大会でもあった。

 さすがに、僕もこんな古い試合のことはまったく知らない。

【58年前の初観戦は実業団対大学の構図】

 僕が初めて天皇杯決勝を観戦したのは1966年度の第46回大会だった。1967年1月15日の「成人の日」。場所は、東京の駒沢陸上競技場。1964年の東京五輪で日本がアルゼンチンを破った記念すべき場所で、当時はここが東京におけるサッカーのメイン会場だった。

 東京五輪での日本代表の善戦や、翌年の日本サッカーリーグ(JSL)開幕によって、それまでマイナーな存在だったサッカーにもようやく陽が当たりはじめた頃だった。翌年から会場は国立競技場となり、1968年度の大会から決勝戦が元日に行なわれるようになった。

 最初の元日決戦はヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)対三菱重工(浦和レッズの前身)。日本代表の2大スター、釜本邦茂と杉山隆一の対決でもあった。

 以来、僕はほとんどすべての大会の決勝を観戦している。決勝戦を"欠席"したのはたった2回だけだ。

 ひとつは1980年度の第60回大会。この時は1980年の12月から翌81年1月にかけて香港でスペインW杯アジア1次予選があったので、そちらを観戦に行っていた。もう1回は2016年の第96回大会。この年の決勝戦は大阪で行なわれたが、どうしても東京にいなければならない用事があったので観戦を断念した。

 というわけで、今年の決勝戦は僕にとって57回目の観戦となった。

 1964年の東京五輪に参加した日本代表の特別コーチ、デットマール・クラマー氏(西ドイツ)が五輪大会終了後に残した「提言」に従って、1965年から日本サッカーリーグ(JSL)が始まった。日本で初めてのホーム&アウェー制の全国リーグだった。

 そのJSL初年度は東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)が優勝し、天皇杯も制して二冠を達成。翌1966年もJSLでは東洋工業が連覇。GKの船本幸路やMFの小城得達、FWの松本育夫など日本代表クラスが多数所属し、間違いなく日本最強チームだった。

 東京五輪で日本のセンターフォワードを務めた釜本邦茂はまだ早稲田大学の学生で、なんと1年生の時から関東大学リーグで4年連続得点王に輝いていた。その早稲田大学には、やはり日本代表MFの森孝慈も在籍。1966年度の第46回天皇杯では決勝まで勝ち上がって東洋工業への挑戦権を獲得した。

 僕が最初に観戦した決勝戦がこの試合だった。

 早稲田大学は釜本をトップ下に下げ、下級生の田辺暁男や野田義一を前線に置いて戦い、釜本のアシストで3ゴールを決めて逆転勝利をつかみ取った。

 この頃まで天皇杯は「実業団対大学」の構図だった。そして、大学勢が天皇杯を制したのはこの第46回大会が最後となった。

【天皇杯の歴史】

 第2次世界大戦前、日本サッカー界をリードしていたのは大学チームだった。

 関東と関西の大学リーグがいわゆる「トップリーグ」であり、カップ戦である全日本選手権よりも、東西の両大学リーグ優勝チーム同士の「王座決定戦」こそが日本最強を決める大会とみなされていた。

 カップ戦よりリーグ戦を重視するという考え方は、当時からあったのである。

 1920年代から30年代にかけて、「明治神宮競技大会」という大会が隔年で開催されていた。現在の国スポ(国民スポーツ大会=旧国体)のような大会だったが、毎回、明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)を中心に東京で開催された。

 この大会は政府主催で明治天皇を偲ぶための大会だったので「各競技最高の大会とする」と定められていた。そのため、この大会が開催される年にはサッカーの全日本選手権大会は明治神宮大会と兼ねて行なわれた。

 1931年大会(全日本選手権としては第11回大会)もそうだった。そして、東京帝大(現在の東京大学)は「東京帝大LB」という名称で二軍を出場させ、主力選手は明治神宮大会終了後に開幕する関東大学リーグに備えて合宿を行なっていた。リーグ戦優先だったのだ。

 しかし、「最高の大会」であるはずの明治神宮大会に二軍を出したことで東京帝大は批判を受けることとなり、東京帝大の総長が謝罪する騒ぎとなった。

 ちなみに、東京帝大二軍の「LB」は明治神宮大会で見事に優勝。一軍もリーグ戦で6連覇を達成した。

 それにしても、1930年代の初めから「リーグ戦優先」の思想があったことは興味深い。

 第2次大戦後も大学勢は強く、全日本選手権でも現役学生とOBの合同チームが優勝することが多かった。「東大LB」とか「慶應BRB」、「早稲田WMW」、「全関学」といった名前のチームがそれだ。

 しかし、1950年代に入ると実業団(同一企業の会社員だけによるチーム)が台頭。1954年度の第34回大会では実業団として初めて東洋工業が決勝に進出。1960年度の第40回大会で古河電工(ジェフユナイテッド千葉の前身)が初めて優勝を飾った。

 つまり、1950年代終わりから1960年代にかけては大学と実業団の力が拮抗していたのだ。そして、大学と実業団のチームがともに戦う大会は天皇杯しかなかったから、当時の天皇杯というのはまさに実力ナンバーワンを決める大会であり、大会にはJSLの上位4チームと全国大学選手権のベスト4の8チームが出場してノックアウト式で優勝を争っていた。

 その後、JSL勢の強化が進むとともに大学と実業団の実力差は広がり、1969年度の立教大学を最後に大学チームが決勝戦に進出することはなくなった。そうなると、「JSL勢と大学勢の対決」という意味はなくなってしまった。そこで、天皇杯は1972年度からオープン化され、最終的には日本全国すべての第1種チームが参加できる本格的なカップ戦に成長していった。

【ジャイアントキリングが現在の醍醐味に】

 もちろん、1970年以降の天皇杯でJSL勢以外が決勝に進出したことはなかった。1980年代には日産自動車(横浜F・マリノスの前身)と読売サッカークラブ(東京ヴェルディの前身)がタイトルを独占する時代もあった。そして、1993年のJリーグ発足後は、やはりJリーグ勢以外で決勝に進んだチームはひとつもない。

 だが、それでも大学勢や地域リーグのチームなどがJリーグ勢を倒す「ジャイアントキリング」は毎年のように話題を提供。それが天皇杯の醍醐味となっている。

 また、JSL時代には決勝で同2部の日本鋼管やヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)が優勝したこともあるし、2022年度の第102回大会でJ2のヴァンフォーレ甲府が優勝を飾ってACL出場権を手にしたことは、まだ記憶に新しい。

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