パ・リーグ新人王 西武・武内夏暉の原点(前編)
「満点」のルーキーイヤーだった。西武のドラ1左腕・武内夏暉は、球団の新人としては2007年の岸孝之(現・楽天)以来、17年ぶりとなる2ケタ勝利と規定投球回に到達。21試合に登板して10勝6敗、防御率はパ・リーグ2位の2.17と、堂々たる成績で新人王を獲得した。西口文也新監督のもと、3年ぶり最下位からの立て直しを図る来季、チームに欠かせない戦力のひとりである。
【教え子の快挙にびっくり】
福岡県出身の武内は、高校時代の3年間を北九州市内の公立校で過ごした。八幡南高で指導にあたった福盛徳之監督は、「びっくりですね」と、教え子の快挙に驚きを隠せない。
「本当にうれしいし、すごいですよね。彼は高校の時から将来的にプロに行く素材だろうなとは思っていました。その後、大学に行って4年後が楽しみというのはありましたが、まさか150キロを超え、ドラ1でプロに行き、さらに新人王を獲るという想像はまったくしていませんでした。先輩がこれだけやっているということで、後輩たちも続いてくれたいいのですが、ウチは今、右投手しかいなくて(笑)。今後、彼に憧れる左投手が入ってくれたらうれしいですね」
人気刑事ドラマ『相棒』シリーズで、「特命係の亀山〜」が決まり文句の捜査一課・伊丹憲一役を演じる俳優の川原和久の母校でもある八幡南高。設備面や練習環境は、全国のどこにでもある公立校とさほど変わりはない。
|
|
グラウンドはほかの部活動と共用。左翼付近でサッカー部が練習をしている時は、バックネットに向かって打撃練習をする。6限授業が週3日、7限授業が週2日あり、それぞれ16時過ぎ、17時過ぎから練習スタート。19時には終えてグラウンド整備や片づけを行なったあと、19時30分には完全下校となる。
武内も在学中は同じタイムスケジュールで動いていた。ただ、当時とは"風景"が変わった。左翼後方の校舎に掲げられた「祝ドラフト一位指名 西武ライオンズ 武内夏暉投手 56期生」の垂れ幕に見守られながら、新チームが練習に励んでいた。溝上虎芽(たいが)主将(2年)も、先輩の活躍に刺激を受けたひとりだ。
「昨年、プロに入る前に来ていただいた時に、体が本当に大きく、キャッチボールも球が全然沈まないので、本当にすごいなと思いました。自分たちと同じ高校の卒業生が夢を与えてくれているので、うれしいです」
今はメジャーリーグで活躍する今永昇太(カブス)は、八幡南高からほど近い北筑高の出身。その後、駒大を経て、DeNAで活躍。今年から海を渡り、15勝(3敗)を挙げた。
武内も国学院大で揉まれ、昨年ドラフトでは3球団競合の末、西武に入団した。北九州市内の公立校から、プロの一線級左腕が2人も輩出されたことは、じつに興味深い。
【中学時代は野手に専念】
それでは、武内はどうして八幡南高へ入学したのか。プロで新人王を獲得するほどの投手なのだから、中学時代に多くの高校が勧誘へ動いてもおかしくはないだろう。
野球部1期生として入学した折尾愛真中時代は、2年時に左ヒジを手術した影響で、投手として脚光を浴びることはなく、野手に専念していた。ただ、武内が3年夏の大会を視察した福盛監督は、キャッチボールをする姿に目を奪われていた。
「フォームがめちゃめちゃきれいでしたね。体も大きかったので目立っていました。バッティングでも大きな当たりを飛ばしていましたよ」
|
|
それでも、中学で実績がなければ、強豪私学への進学は難しい。後日、八幡南高を志望していることを聞いた。
「折尾愛真中の監督さんが八幡南のOBということと、その当時の八幡南がちょうど秋季九州大会に初出場したり、夏の福岡大会でベスト4まで勝ち上がったりといったもあり、本人が希望してウチを受験してくれました」
こうした縁があって入学した八幡南高では、故障明けに加え、軟球から硬球に変わるということもあり、投手としては無理をさせず、野手メニューをこなしながら段階を踏んで育てていった。当時副部長だった大津敦司教諭は、「最初は投手という事実を知りませんでした」と懐かしそうに振り返る。
「夏前に1年生チームで練習試合に行く時に、福盛監督から『武内を1イニングだけ投げさせてみてほしい』と連絡を受けまして、投げさせたら、やっぱり違いましたね。球が"垂れる"ということがないんです。まだ本格的に投手を再開する前でしたけど、ものすごく印象に残っています」
信じられないデータがある。武内は高校時代、最速は130キロとそこまで速いスピードボールを投げるわけではなかったが、打者が思いのほか差し込まれて空振りや凡打するケースが多く見受けられた。
|
|
理由は、打者の手元でも失速しない直球にある。ある時、スピードガンの表示を見ると、初速、終速ともに「129キロ」と表示されていたというから驚きだ。
投げ放たれたボールは、空気抵抗によって速度を失うため、大体の投手は初速と終速で10キロほどの差が出る。この差が少ないほど、打者にとっては球速以上の「伸び」を感じる。プロ入り後、直球の最速は154キロまでアップし、額面どおりの勢いをキープしたまま、ベース板の上を通過する。並み居る強打者が差し込まれるのも納得できる。
【4番を任されるなど打撃も非凡】
1年秋には4番も任されるなど、打撃も非凡なものがあった。ただ、福盛監督が本人と話し合い、2年春からは投手のみに専念することになる。
「4番を捨てましたね(笑)。ただ、投手はある程度揃っていたので、無理をして投げさせる必要はありませんでした。そこからは2年秋の大会を想定しながら、(八幡南高が所属する)福岡北部地区のチームとの練習試合には投げさせず、南部地区や県外のチームにしか投げさせませんでした。遠征に行った時も、相手チームの監督さんから『この子はいいね』と言ってもらったりしていました」
2年夏の北福岡大会は、1回戦で自由が丘高に敗退。武内も9回一死から3番手でマウンドに上がり、2安打こそ浴びたが、打者2人を抑えた。わずか1イニングにも満たない登板だったが、たしかな爪痕を残すことはできた。
「その試合が終わったあとに、大学の関係者から電話をいただいたりしました。見る人が見たら、よさがわかるんでしょうね」
福岡の八幡南高に大型の左腕がいる──。評判は瞬く間にプロのスカウトの知るところとなる。初めてエースナンバーを背負って臨んだ2年秋の福岡大会。4回戦の真颯館高戦、1対3で惜しくも敗退したが、好投を見せた左腕を視察する関係者も次第に増えていった。
つづく>>