連載 怪物・江川卓伝〜川口和久が憧れ続けた投球スタイル(前編)
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1980年代から90年代にかけて広島、巨人で活躍し、通算139勝を挙げたサウスポー・川口和久にとって、左右の違いはあれど、江川卓のピッチングは参考になり、いつ見ても勉強になったという。
「江川さんって、ランナーがいないときは、のらりくらり投げていましたよね。ランナーがいないとドローンとしたカーブで打ちとり、得点圏に進むとストレートで押し込んでくるといったパターンを持っていました。すごく参考にさせてもらったし、江川さんの柔らかいフォームから球威のあるボールを投げるっていうところは、大変勉強になりました」
【江川卓との共通点】
川口は、1980年に社会人のデュプロからドラフト1位で広島から指名を受け入団。当初は、それこそ江川同様に真っすぐとカーブだけのピッチングだった。若さと勢いは大きな武器となり、3年目には15勝をマークして一躍脚光を浴びた。
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だが、それだけで通用しないのがプロだ。5年目からスクリューボールを増やすなど、マイナーチェンジしながら1年1年凌いでいったという。
「キャッチャーの達川(光男)さんから『球種を増やせ』とリクエストがありました。右打者に対してのアウトコースの出し入れのなかで、指があまり長くないので、フォークより少し浅めに握って、シュート気味に落ちるスクリューボールを覚えました。それから6年間(86〜91年)10勝以上の勝ち星を挙げることができました」
そして川口と江川の共通点は、高めのストレートで空振りがとれるところだ。川口は自身の投球スタイルを熟知しており、高めのストレートを勝負球にしている江川のピッチングに憧れを抱いていた。
「昔の球場って、そんなに広くなかったじゃないですか。だから、首脳陣からは口酸っぱく『低めにコントロールしろ』って言われていたんですけど、江川さんのピッチングを見ていると高めの速球をうまく使っていたように思います。
当時の江川さんのストレートって、今のスピードガンだとおそらく155キロぐらいだと思うんですけど、回転数が多くホップするようなボールを高めに投げて空振りがとれるっていうことをすごく意識されていましたよね。僕も高めのストレートでよく三振をとっていましたし、高めのストレートっていうのは空振りをとる一番の要素だと思っていましたから」
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回転数の多い球をインハイに投げて空振り三振を奪う江川の姿こそが、川口のなかで理想のピッチングにピッタリはまったのだ。
【最初に江川卓を見た時の衝撃】
思えば、鳥取城北高2年時に、神宮大会の開会式で川口のすぐ横に法政大4年だった江川がいた。その時に見た江川の岩のようなお尻に、川口は「でけぇ」と口をあんぐりさせるしかなかった。衝撃の出会いから"江川卓"という名前が刻まれ、川口がプロ入りしたルーキーイヤーの1981年に江川が20勝で最多勝。川口にとってますます江川の存在が大きくなっていく。
「入団当初、達川さんは『川口は縦のカーブと真っすぐを使うピッチャーだ』って言っていました。僕のカーブというのは、高めから低めに落ちていく縦変化のボール。高低のボールというのは、打者の目線が追いにくいわけですよ。だから低めにいけばゴロでアウトがとりやすくなる。特に打者の意識が高めのストレートにあれば、カーブを打つのはより難しくなるわけです。真っすぐもカーブも同じ位置からリリースするように努力していました」
高めの速い真っすぐを武器にするには、縦ラインをうまく使うのが必要であり、その要素のなかに高めから低めに落ちるカーブがアクセントとなった。そのためストレートに意識のある打者は、カーブの軌道に追いついていけず、凡打の山を築いていった。
「縦変化をうまく使う江川さんのピッチングは、ランナーが出ると力の入れどころっていうか、のらりくらりからパワーピッチングにパッとシフトチェンジするのに適していた。すごく勉強になりましたね。僕はどちらかというと、コースを突いてカウントをとるのではなく、ファウルでカウントをとるタイプ。要するに、力のあるボールをゾーンに投げ込めば空振りかファウルがとれる。そのピッチングに徹していました。変にコースを狙うよりラクなんですよ」
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そう言って川口は巨人のエース・菅野智之の名前を出し、こう続けた。
「菅野が打たれるパターンっていうのは、コースを狙いすぎてカウントが悪くなり、ストライクをとりにいったところをやられる。バットの芯が一番遠いところは、やっぱりインコースだと思うんです。インコースに速い球を投げてファウルでカウントをとれれば、三振を奪うチャンスが増えます。三振を狙いにいく時は、インコースで追い込んでから、最後はアウトコースのギリギリを狙う。最初からコーナーを狙って投げるとカウントが悪くなっちゃうので、そういうリスクは避けなきゃいけないっていうのは思っていました」
その点、江川は抜群のコントロールを誇ったため、コーナーを狙ってカーブで簡単にカウントをとり、勝負球に高めの速いストレートで三振をとるスタイルを主流としていた。
ただ川口も江川同様に、インコース高めのストレートで空振り三振をとっていたイメージがある。本人も「高めの球でも空振り三振をとっていました」と認めるように、高めのストレートで空振りがとれる自信を持っていた。そこにはスピードよりも回転数が大きく関係しているのだった。
(文中敬称略)
つづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している