「どうせ早く死ぬ」被爆2世の男性は酒におぼれた 「見えない恐怖」と闘い続けて見つけた使命

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2024年11月30日 17:10  まいどなニュース

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「少年の頃から、被爆2世としての漠然とした不安を抱いていた」と話し、当時の思いを書いた本を読む奥村さん(大津市南小松)

 「どうせ早く死ぬ」。大津市に暮らす被爆2世の奥村徹行さん(77)は、自暴自棄になっていたという30〜40代を赤裸々に振り返る。一時はアルコール依存症と診断され、闘病生活も送った。

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 徹行さんの母・チエミさんは、高等女学校の4年生だった17歳の時、広島市内で被爆した。徹行さんの誕生は、2年後の1947年。原因不明の高熱が出たり、髪の毛が抜けたりするなど、体調不良が続く中での出産・育児だったという。

 思い起こせば、「私は早く死ぬ」との母の口癖を聞きながら育ってきた。自身の健康状態には問題はなかったが、10代の頃、小学生のいとこが亡くなった時には衝撃を受けた。母の妹の子で、自分と同じように被爆2世。白血病だった。

 放射線の恐ろしさは母からだけでなく、書物などでも知識を得てきた。20代から30代にかけては、県内で反戦・反核運動の会を主催したり、戦争体験の証言集や詩集を出版したりと、戦争の悲惨さを伝える活動に取り組んだ。ただ、常に隣には「自分の身体に放射線の影響はないのか」との恐怖があった。

 37歳の時には、内に秘めてきた不安や2世として抱いてきた「早死の予感」を小説にしてみた。アルコールに頼るようになったのは、その頃から。依存症との闘いには、なんとなく身が入らなかった。「どうせ2世だから」という思いがあった。

 離れて暮らしていた母は、大津市内の小学校や滋賀県東近江市の滋賀県平和祈念館で、子どもたちに被爆体験を語る活動に取り組んでいた。「早く死ぬ」と常々言っていた母が、家族や友人を奪った原爆のひどさを次の世代に懸命に伝えている。年老いゆく母に、「助かった命で生きていく覚悟を見た気がした」。

 被爆2世に対しては、国が年1回、無料で健康診断を受けられるようにしている。だが、「親の被爆が健康に影響するとの科学的知見は得られていない」とのスタンスを国は変えていない。見えない恐怖と隣り合わせで生きることだけでも大きな負担なのだ、と徹行さんは思う。

 京都では、府内の被爆2世が中心になって2012年に結成した「京都『被爆二世・三世の会』」が、2世、3世の健康問題を活動の軸に据えて実態調査に取り組んでいる。24年1月公表のアンケートでは、けがをすると傷口が膿(う)みやすかった、腹痛を伴う下痢に悩んできた、という報告が多かった。「事実を調べ、実態を知ることが大切だ」。同会世話人の平信行さん(73)は強調する。

 滋賀では、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に加盟する「県被爆者友の会」が08年に解散している。広島の惨状を湖国に伝える貴重な語り部だったチエミさんは、22年2月に93歳で亡くなった。「被爆2世には、被爆者の子どもならではの苦悩がある。それを語り継ぐ意義を共有していく機会や場が重要だ」。徹行さんはそう考えている。

(まいどなニュース/京都新聞)

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  • ”人生100年”とかいって完全に平和ボケしてるのも秩序ある社会の一助になってるんだろうか
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