テレビ、ラジオ、そしてホームグランドである舞台と、精力的に活動を展開する三宅裕司さん(73歳)。春風亭昇太さんらとの「熱海五郎一座」は前身である「伊東四朗一座」から今年で20年を数え、6月に上演された記念公演は、新橋演舞場で全30公演、連日満員で幕を閉じた。自身が主宰する「劇団スーパーエキセントリックシアター」(SET)も、この秋に創立45周年を迎え、記念公演『ニッポン狂騒時代〜令和JAPANはビックリギョーテン有頂天〜』が東京・神戸で全16公演、上演された。さらに80年代の中高生を熱狂させた『三宅裕司のヤングパラダイス』(ニッポン放送)から日曜朝の顔として現在も放送中の『三宅裕司 サンデーヒットパラダイス』(ニッポン放送)まで、ラジオパーソナリティとしても40周年を迎え、今年は三宅さんにとってアニバーサリーづくしな一年となった。
◆人が集まりすぎて警察に怒られた(笑)
三宅裕司(以下、三宅):ラジオが40年、劇団が45年の節目ということで、まわりはイベントとか、お祭り的な何かやろうかって言いますけど、僕自身は節目ってまったく感じてないんですよね。劇団は、来年の本公演をどうしようってことを考えるのは、ずっと毎年やってきたことだし、ラジオは毎週やってて気づいたら40年、というのが正直なところですね。
――1984年から放送された『三宅裕司のヤングパラダイス』(ヤンパラ)は「ヤッちゃん」ブームなど社会現象的な人気となりました。
三宅:『ヤンパラ』がはじまってしばらくして電車で移動してる時に、電車の中で若い人が『ヤンパラ』の話をしているのを耳にしたんです。スタッフからも「学生が電車の中で『ヤンパラ』の話をしてたよ」っていう声が聞こえ出して。そこからハガキが紙袋に何袋って毎週来るようになって、「これはいけるんじゃないか」と思いましたね。
当時は文化放送の吉田照美さんの番組『てるてるワイド』の人気がすごくて、ずっとニッポン放送は聴取率で勝てなかったんです。でも、「ヤッちゃん」の企画などが当たって、『ヤンパラ』が時間帯のトップになったんですよ。
――三宅さんがヤクザにからまれたエピソードを面白おかしく語ったことから派生した「あなたも体験・恐怖のヤッちゃん」のコーナーは本もベストセラーとなり、金子修介監督で映画化までされましたね。他にも日清食品との共同企画で番組オリジナルのカップラーメン「ヤンパラフル」を発売するなど、この番組からはラジオの枠を飛び出したさまざまなヒット企画が誕生しました。
三宅:「ヤンパラフル」の発売イベントで新宿のアルタ前に集まった人数を上から見たときは、あんなに人が来ると思わなかったので本当に驚きましたね。あまりに人が集まりすぎて、警察に怒られたんです(笑)。あと驚いたのは番組に送られてきたバレンタインデーのチョコレートですね。こういうのはアイドルとかに来るものだと思ってたら、35歳の俺にもこんなに来るんだって。当時の人気アイドルはトラック何台分で、俺は紙袋2つ分くらいでしたけど(笑)。
◆当時のスケジュール表は一週間真っ黒
――番組の人気に比例するかのように三宅さんの人気もすごいことになっていましたね。ラジオでは月曜から木曜までの2時間の生放送、テレビでも『テレビ探偵団』(TBS)、『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)など、数々のヒット番組でお茶の間の人気者となりました。
三宅:SETという劇団を作って、やっぱり劇団ごと売りたい、売れたいなっていう気持ちが強かったんです。そのために俺は何でもやるつもりだぞっていう気持ちでやってましたね。それは劇団を売るためでもあるし、自分も売れたいし。30歳過ぎで顔と名前が広く知られるようになって、売り出しが遅いわけですから、もっとがんばらなきゃっていうのもありました。当時のスケジュール表をまだとってあるんですけど、一週間真っ黒です。
『ヤンパラ』をやってた頃は、月曜から木曜は前の仕事が終わったらサウナでちょっと汗流して、放送2時間前の8時ぐらいにはニッポン放送に入る。局に入ったら、晩飯を食べながら番組に来た面白いハガキを選んでいく。この繰り返しでしたね。でも、忙しすぎて劇団の活動ができなくなっちゃったんです。本末転倒ですよ。
◆ライバルだった吉田照美と…
――84年からスタートした『ヤンパラ』は99年に終了しましたが、以降も三宅さんはニッポン放送でレギュラーとして現在まで40年にわたりパーソナリティを続けてます。このたび、ラジオパーソナリティとして40年を記念した本『しゃべり続けて40年 今だから話せるナイショ話 三宅裕司ラジオパーソナリティ対談集』(扶桑社)も発売したそうですね。
三宅:ラジオパーソナリティをテーマに、伊東四朗さん、高田文夫さん、土田晃之さん、吉田照美さん、私を『ヤンパラ』に抜擢してくれた元プロデューサーの宮本幸一さんという5人の方と対談させていただきました。
――40周年にふさわしい、豪華なメンバーが揃いましたね。
三宅:伊東さんもラジオをやられて40年になるんですが、伊東さんは嫌々ラジオの番組をやることになったそうなんです。でもやるからには、開き直って一生懸命やって、それが長く続いてしまう。そこに伊東さんの人生を感じましたね。
高田先生は(ビート)たけしさんの『オールナイトニッポン』が10年、そして『ラジオビバリー昼ズ』が今年で35年と、生放送で45年。高田先生とお話ししていく中で、自分が東京のものにしかあこがれてなかったっていうことを再確認できました。
当時『ヤンパラ』のリスナーだった土田君。現在、ニッポン放送の日曜は、朝から私の『サンデーヒットパラダイス』で午後からは『土田晃之 日曜のへそ』と、当時リスナーだった少年と並んで番組をやってるというのは感慨深いですよね。
かつてのライバルだった照美さんから初めて聞いた『てるてるワイド』(文化放送)快進撃のポイントが実は全部ニッポン放送の真似だったというのは驚きました(笑)。
そして、僕の人生を変えた一人である宮本さん。自分のために動いてくれる人と巡り会えたことの幸運を、今回の対談で改めて痛感しました。
◆『ヤンパラ』を聞いてた人がおじいちゃん、おばあちゃんに
――改めて、劇団創立45周年、ラジオパーソナリティ40周年を振り返っていかがですか?
三宅:劇団を長くやってると、二世代三世代で観に来てくれる人がいるんですよ。俺だっておじいちゃんですから、60代、50代後半でもおじいちゃんなる人がいますからね。かつて『ヤンパラ』を聞いてた人でおじいちゃん、おばあちゃんになってる人がいるわけです。ということはですよ、舞台を三世代で見に来てる人のきっかけは大体『ヤンパラ』なんですよ……なんか、いい話になっちゃいましたね(笑)。
演じるお笑いがやりたくて、芸能界に入って、劇団も作った。劇団を売るため、自分も売れるために、ラジオをやって、テレビでコント番組をやって、コント番組ができなくなって、司会をやったりと、いろいろなことをやってきました。でも、結局残ったのが劇団とラジオなんです。
僕にとって劇団とラジオって演じる笑いができる場なんですね。最初に目指したものがやっぱり残るんだっていう。70を超えていろいろと振り返って、ここが残るのか、と思うと本当に感慨深いですね。
<取材・文/日刊SPA!取材班 撮影/山川修一>