風俗で働いていた経験をもち、現在は色街写真家として作品展を開催したりYoutubeで発信したりしている紅子さん(52歳)。イベントに登場するとチケットはすぐ完売、女性たちからの支持が高い。
彼女はキャリーバッグを引いて、ふわりと待ち合わせ場所にやってきた。トレードマークのベレー帽をかぶった姿はまるで美大生のよう。波乱に満ちた人生を送ってきたとは思えないほど、おっとりした口調も印象的である。
◆友だちの作り方がわからなかった
紅子さんは埼玉県で、お菓子などを売っている商店の長女(双子の妹がいる)として生まれた。両親は仕事が忙しく、朝から晩まで家にいない。記憶にあるのは、夕方、父親が買ってくるコロッケをおかずにごはんを食べたこと。テーブルはダンボールだった。
「私は人と話すのが苦手で、保育園に預けられたものの、どうしたら人としゃべれるんだろうと思っていました。先生に『あなたは何もできないから外にいなさい』と放り出されたこともあります。だから小学校に行くのが怖かった」(紅子さん、コメント部以下同)
当然、小学校にもなじめなかった。学校へ行きたくなくて、物置の上に乗って「近づくな」と叫んだり物を投げたりしていた。親も手を焼いてはいたようだが、「毎日、朝早くから11時頃まで仕事でいなかった」から、綿密なケアはできなかったようだ。
「学校では一言も言葉を発しないから、同級生から手の甲を鉛筆で刺されたり、トイレに連れ込まれてデッキブラシで殴られたりといじめられました。何か言わせようとしていたんでしょうね。本当は同級生が集まっている場所に入っていきたい、友だちを作りたいとは思っていたんですよ。だけどどうしたらいいのかがわからなかった」
◆メーテルが山賊に襲われるシーンを妄想
小中学校を通して、学校には行ったり行かなかったりだった。もはや勉強もすっかりわからなくなっているため、授業中も彼女はひたすら妄想で物語を紡いでいた。
「小学生のころから頭の中に絵を描きつつ、妄想を繰り広げていました。たまたまどこかで女性の裸体が載っている雑誌を見つけて、きれいな女性は人に受け入れられるんだとわかった。妄想の中では、銀河鉄道999のメーテルのような美しい女性が山賊に襲われて身ぐるみ剥がされて、というところにエロスを覚え、そういう絵も描いたりしていましたね」
中学生になったらきっと男に襲ってもらえると思っていたが、実際には男子からハスキーな声をからかわれたり、気持ちが悪いと避けられたりした。どうしたら人に受け入れてもらえるんだろう。それが彼女の心をいつも支配していた。「どうしたら好かれるのだろう」ではなく、「受け入れられるのだろう」というのはとてもせつない承認欲求である。
「名前だけ書ければ入れるような高校に、ようやく入れたけど結局、1学期くらいで辞めてしまったんです。さすがに母が泣いていましたね。そのまま家にいるわけにもいかないので、面接と作文だけで入れる美術の専門学校に行こうと決め、朝から晩までアルバイトをしてお金を貯めました」
絵を描くのは子どものころから好きだった。自分のやりたいことが見つかった紅子さんは、その専門学校で初めて「居場所ができた」と感じたという。
「絵や彫刻を学んでいるのは楽しかったんですが、とにかく学費がかかる。アルバイトで疲れ果ててしまったころ、『フロアレディ募集 日給1万円以上』というチラシを見つけたんです」
◆風俗店と知らずに面接、そのまま仕事に
それが西川口のピンサロだった。裸同然のかっこうで男性にサービスするのだが、「裸になれば受け入れてもらえる」という彼女の希望は打ち砕かれた。初心者の彼女は「下手だ」と客になじられる。挫折して辞めたが、時間とお金のことを考えると同じような仕事に就くしかなかった。その後は風俗店を転々とする。
「渋谷のピンサロにいたとき、お客さんが吉原の存在を教えてくれたんです。『そんなところに行ったらこの世の終わり』とも言っていた。でも私は人生を終わりにしたかった。だから翌週には面接を受けに行きました」
世の中にも人にもなじめない。子どものころ、生きづらくて、虫刺され用のキンカンを一気飲みして苦しんだこともあった。死にたくても死ねない。生きることもできない。そんな苦悩の中を、なんとか日々、動いている。大人になってもそんな状態は続いていた。
◆日本三大名店と誉れのソープで3年
21歳のとき、吉原の「素人専門」が売りのソープランドで働き始めた。驚いたのは店が女の子たちを「お姫様」扱いするところだった。
「店長による講習があって、それが終わって部屋を出ると廊下に並んでいたボーイさんたちが拍手してくれて。そのときの私には、なんていいところなんだろうと」
結局、出たり入ったりしながら吉原や川崎堀之内のソープで仕事を続けた。美術の専門学校には6年いたが、それが仕事にはつながらなかった。他にできることはなく、いったん外に出てもまた舞い戻るしかなかったのだ。
「それでも何かしらの意地があったんでしょうか。最後は日本三大名店といわれるソープの面接を受けて、そこで3年働きました。接客してお金をいただくということは受け入れられたということなんだと思えるようにもなっていた。ただ、指名をとっていかないといけない厳しい店でした。毎月、ベスト10に入っていないと首になるかもしれないと、いつも戦々恐々としていましたね」
だんだん体がきつくなっていく。メンタル的にもつらかった。風俗は、当時の彼女にとっては「人には言えない恥ずかしい仕事」だった。人に言えない分、孤独になっていく。どうしたら陽の当たる場所で普通に働けるのか。そればかり考えていた。
◆32歳で結婚した夫から衝撃の告白
当時、彼女には同棲している恋人がいた。彼にはカフェで働いていると嘘をついていた。それも心苦しかったという。32歳のとき彼女は店を辞め、結婚した。34歳で子どもが産まれたが、1歳になったころ夫から「結婚したい人ができた」と告白された。浮気じゃない、本気なんだ、と。
「そう言われたら引き止めることはできませんよね。それからは子どもとふたりの生活です。なんとか育てなければいけないから、漢字の練習をしてパソコンを学んで……。必死でした。母親になった自分が風俗に戻ることは考えられなかった。週に6日の事務職を得て、ようやく普通の生活ができるようになって、それはうれしかったですね」
子どもとふたり、贅沢をしなければ「普通に」暮らせることが何より重要だった。パートさんたちとも和気藹々と過ごすことができたのも喜びとなったが、40代後半にさしかかったとき「夜10時に大量のコピーを取っていることが、突然、虚しくなった」という。
「私の人生、これで終わるのかと。ちょうど子どもが中学生になって、少し自分の時間ができてきたので街歩きを始めたんです。気になるところはスマホで写真を撮ってSNSにあげたりして。都内には意外と三業地とか、かつての赤線、青線の名残がある。そんな場所を歩きながら、自分がいた吉原も、江戸時代は遊郭だったとわかってその歴史を調べるようになったんです」
◆独学で学んだ写真が放つ“妖しい魅力”
風俗にいたのは、彼女にとってずっと「恥であり、後悔ばかりしていた」のだが、かつて吉原は、そのときの流行の発信地であり、今となっては文化的側面も指摘されている。文化として風俗を語り継いでいきたいという思いが強くなり、一眼レフのカメラを買ってあちこち撮影するようになっていった。それをSNSに載せたところ、出版社などから声がかかるようになる。
「だんだん、こちらの仕事が忙しくなってきて、2年前に会社を辞めました。フリーランスになるなんて何の保証もないから悩んだし、会社に引き止めてももらったんですが、思い切ってやってみようと」
もしかしたら、彼女にとって初めて自分の意志で選び、つかみとった仕事なのかもしれない。写真は独学だが、彼女の撮った吉原や元ソープだった店などは独特の昏い光を放った魔力さえ感じる作品となっている。
「つい先日、60年も続いたソープが閉店すると聞いて撮影させてもらったんです。働いていた女の子にも話が聞けて……。店も女の子も、とてもいい雰囲気なんですよね。お客さんへの愛がある。お客さんも店や女の子に深い思い入れがある。私は残念ながら、働いているときに店や風俗への愛をもてなかったけど、こういうお店もあるんだなと新たな発見がありました」
このところ、全国の色街を撮影、「紅子の色街探訪記」として冊子にまとめている。2025年5月には東京・吉原と、大阪・飛田新地で写真展を開催、あらたな写真集も出版される予定だ。今も遊郭の雰囲気が色濃く残る飛田新地は全面的に撮影禁止になっている。彼女は飛田会館に挨拶に行き、写真を通して遊郭の歴史を伝えている自らの活動を話した。「受け入れてもらえている」という感覚があったと、彼女はうれしそうに言う。「ちょうど万博が近いので、飛田が未来につながるような写真を探していたところです」と言われたそうだ。
「その言葉が本当にうれしかった。私の過去が、後悔のまま終わらずにすむような気がしました。これからも写真を撮り続けたいと思っています。それが私の宿命だと思うから」
最後はきっぱりとそう言って、紅子さんはまたふわりと微笑を浮かべた。
<取材・文/亀山早苗 撮影(人物)/渡辺秀之 写真提供(色街写真)/紅子>
【亀山早苗】
フリーライター。著書に『くまモン力ー人を惹きつける愛と魅力の秘密』がある。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。Twitter:@viofatalevio