連載 怪物・江川卓伝〜「150キロの申し子」 小松辰雄の自負心(後編)
前編:江川卓の球を打席で見た瞬間、小松辰雄は「こりゃ打てんな」と観念はこちら>>
1980年代の中日のエース・小松辰雄といえば、150キロを超す剛速球で一世を風靡し、速球派のレベルを底上げした投手でもある。そんな小松にとって、江川卓はプロに入って初めて敵わないと思ったピッチャーだった。
【ペース配分なんて考えたことない】
「江川さんのボールを見てしまうと、投げ合っていても知らず知らずのうちに力んでしまう。それにピッチャーでホームランを打たれたのは、江川さんしかいない。だからなのか、ほかのピッチャーが打席に入った時でも、力を入れるようになってしまった」
打席にピッチャーが立った場合、手加減して投げがちだ。場面によっては打ち気がないケースが多いし、際どいインコース攻めはしないという暗黙の了解みたいなものがある。しかし小松は、江川にホームランを打たれたことで、ピッチャーが相手だと余計に力が入ってしまうようになったという。
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対戦したバッターのほとんどが、小松の球は低めにズドーンとくる重い剛速球だと評する。それに対して江川の球は、グイーンと高めに伸びてくる快速球。小松を含め、ほかのピッチャーは江川ほどのきれいなスピンがかからず、時にシュート回転してしまう。だからこそ江川のボールは、打者の記憶に深く刻まれていくのだ。
身長183センチよりも大きく見える恵まれた体格の江川に比べ、小松は178センチだが数字よりも小柄に見える。ただ内に秘めるパワーがすごく、中学時代には走り幅跳び6メートル、走り高跳びは176センチを飛ぶなど、抜群のバネを持っていた。
「背筋力は300キロあったからね。いま思えば、背筋が強すぎちゃうから、足がついてこない感じだったのかな。よく足を痛めたからね。まず内転筋をやっちゃって......。ここは投球フォームにおいて、最後の最後に絞るところだから。ここをケガしてからは、ふくらはぎや太ももとか、いろんなところをケガしてしまった。5年目に内転筋をやってからは、引退するまでテーピングをして投げていたから。あれがなきゃ、どうなっていたかなって感じだったけどね」
小松の現役時のユニフォーム姿を見ると、下半身がパンパンなのがわかる。ダッシュやランニングで鍛え上げたのは一目瞭然だ。
江川は先発した際、完投するためにペース配分を考えて投げていたというが、はたして小松はどうだったのだろうか。
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「そんなこと考えたことないよね。あの人だからできた芸当だと思う。作新学院時代からペース配分を考えて投げていたと聞いたことがある。ランナーが得点圏にいったら、力を入れて抑えるといった感じで。何度も言うように、オレはピッチャーが相手の時は余計に力を入れて投げていたぐらいだから。ただ、馬力はあったんじゃないかな。中4日で、1試合に150から160球投げても平気だったから」
小松はピッチャー特有の爪が割れたり、マメができたりすることはなかった。周りからは「あれだけ投げたのになんで(マメが)できないんだ? なんかやっているのか?」と冗談半分で言われたりしたが、小松は体質だと言って一笑に付していた。
【これで負けるわけにはいかんな】
江川について中日の選手に取材をすると、どうしてもあの試合に触れずにはいられない。1982年9月28日ナゴヤ球場での中日対巨人。首位・巨人に2.5ゲーム差で2位の中日が、残り試合の関係でこの試合に勝てば逆マジックが点灯する天王山初戦。
江川と三沢淳の先発で試合は、8回が終わって6対2と巨人の4点リード。楽勝ムードだと思われたゲームだったが、9回裏に中日が江川を攻略して同点に追いつき、延長10回裏に大島康徳のサヨナラ安打で中日が劇的勝利した伝説の試合。小松にとっても、特別かつ生涯初体験の試合となった。
「4点差で負けていたのに、9回に連打連打で点差が縮まっていった。あの時はまだ抑えをやっていて、『あれあれ?』と思いながら見ていたら『ピッチングやれ』って言われて、ブルペンに行って準備をしていた。そしたら中尾(孝義)さんのタイムリーで同点になり、『いくぞ』って言われてマウンドに上がったけど、さすがに足が震えたもんね。武者震いみたいな感じ。野球をやっていて、マウンドで足が震えたのはあの時だけ。『うわー、江川さんを打ち崩して同点になって、これで負けるわけにはいかんな』と思った。
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ウチが勝ったらマジックが出る試合だったんだよね。ツーアウト一、二塁のピンチは招いたけど、なんとか抑えて、これで負けがなくなったと思ってホッとしたよ。その裏、大島さんがセンター前ヒットを放ってサヨナラ勝ち。マジック12が点灯したんだよね。ほんと劇的な勝利だった。このシーズン最終戦の大洋戦で勝ったら優勝という大一番に先発して完投したけど、足は震えなかった。あの試合だけだよ」
小松は足の故障を抱えながら、2度のリーグ優勝を経験し日本シリーズでも登板しているが、マウンドで足が震えたのは82年9月28日の巨人戦だけだったという。
この試合、江川がふつうに完投していたら2年連続20勝達成となり、巨人のリーグ優勝はたしかなものになっていただろう。それほどこの逆転劇は、中日の優勝を引き寄せただけでなく、高校時代から続いていた"江川神話"の終焉を意味する試合だったのかもしれない。
「高校の時の球をほんとに見たかったなと思うんだよね。大学に行かずにプロに入っていたらどうなっていたのか......。あの時のドラフトは、阪急(現・オリックス)が江川さんとの交渉権を獲得したんだよね。江川さんは、昭和のピッチャーで一番じゃないかな。カネさん(金田正一)や尾崎(行雄)さんの球は実際に見たことはないけど、ボールだけならやっぱり江川さんがナンバーワンだと思う。高校時代にあれだけノーヒット・ノーランや完全試合をやっているんだから」
150キロの扉をこじ開けた小松ですら、江川の前ではなす術なく、潔く白旗を上げた。すべては「ボールを見てビックリしたのは江川さんだけ」という言葉に集約されている。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している