連載 怪物・江川卓伝〜「150キロの申し子」 小松辰雄の自負心(前編)
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今の時代、150キロを投げることは決して珍しいことではない。高校生でも150キロを投げる投手が出現し、大学、社会人を含めれば毎年50人近くいるのではないか。
大谷翔平(ドジャース)、佐々木朗希(ロッテ)の登場で、「速い球=160キロ」がひとつの目安となっている。だが、かつては150キロが超人めいた夢の数字だと語られる時代がった。
【スピードだけは負けないと思っていた】
今から45年ほど前、1980年前後に各球場にスピードガンが設置され始めたことから、観客の楽しみのひとつに"スピード"という概念が植え付けられるようになる。速球派が140キロ以上と言われた時代、"150キロ"という数字は大きな壁となって立ちはだかった。
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今で言えば160キロに相当するが、当時はそれ以上に高いハードルに思えたものだ。150キロに到達したピッチャーは称賛され、「150キロ投手」という冠を堂々と掲げることができた。いわば、選ばれし者だけが得る勲章だった。
江川卓の取材を重ねるなかで、スピードについて焦点を当てると、必ずといっていいほど名前が挙がるピッチャーがいる。
小松辰雄──「150キロの申し子」と呼ばれた球界屈指の速球派投手だ。
小松は星稜高(石川)時代、甲子園に3回出場し、高校2年夏はベスト4。1977年のドラフトで中日から2位で指名され入団。駒澤大に進学予定だったのをなんとか説き伏せてのプロ入りだった。星稜と言えば、松井秀喜(元巨人など)や奥川恭伸(ヤクルト)の名前が浮かぶが、小松は星稜から初めてプロに入った選手である。
「プロに入っても、別にビックリしなかったね。スピードだけは負けないと思っていたから。1年目のブルペンで『勝てるな』とすぐに思ったくらい。スーさん(鈴木孝政)はヒジを故障していたし、速いピッチャーってほとんどいなかった。学校の関係上、2月10日頃にキャンプに入ったんだけど、それまでまともに練習していなかった。合流してキャッチボールが終わると、当時ピッチングコーチだった稲尾(和久)さんが『ピッチングするか?』って言うの。いきなりピッチングをするなんて、今じゃちょっと考えられないでしょ。
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で、『やります』って言ってブルペンに入ったんだけど、半年ほど投げていない"休み肩"だったから、とにかく軽くてビュンビュン速い球を投げまくった。そしたらみんなが見に来て、『やっぱり速いな』って声が聞こえるから、もう有頂天になって......100球くらい投げたよ。そしたら次の日、肩が痛くて上がらない。その後のキャンプはずっとランニングで終わり」
プロ入り当初からスピードだけには自信があった小松は、2年目からリリーフとして一軍に定着し、順調にキャリアを積んでいく。
その剛速球を武器に、先発転向後に2度の最多勝を獲得した小松にとって、自分より速いと思ったピッチャーがいたのかどうか、どうしても聞いてみたかった。
【高校からプロに入っていれば300勝できた】
「ビックリしたのは江川さんだけ。あとは全然思わなかった。巨人の槙原(寛己)も155キロのスピードボールを投げていたけど、怖さはなかった。打席に立って、江川さんだけはビックリしたからね。回転がきれいで、ポーンと浮き上がってくる。尋常じゃない伸びをしていた。
あの投げ方を真似したこともあるけど、自分にはできなかった。でもある日、原(辰徳)さんが『おまえもいい時は、ああいうボールに見えた』って言ってくれた。沢村賞を獲得した85年は江川さんのようなボールだったと」
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広島の津田恒実、大野豊、大洋(現・DeNA)の遠藤一彦といった速球派の好投手はいたが、小松にスピードで勝る者はいなかった。デビューしたての槙原も最速155キロを投げていたが、怖さも速さも感じなかった。ただ江川については、スピードは小松のほうが出ていたが、球質のすごさに驚愕したという。
「江川さんって、大学の時に肩を壊しちゃったからね。法政大時代は無茶苦茶だったもんね。1戦目に先発して、2戦目は勝つチャンスがあれば投げて、3戦目にまた先発だからね。それを4年間続けて通算47勝。そりゃ肩を壊すって。高校からプロに入っていれば300勝はしていたと思う。
後にも先にも、バッターボックスに入ってビックリしたのは江川さんのボールだけ。バレーボールぐらい大きく見えて、グイーンと伸びてくる。『うわっ』って思っちゃった。その瞬間、『こりゃ打てんな』と観念した。だから江川さんと先発で投げ合う時は、力んでしまうんだろうね。江川さんが引退する年、最後に投げ合って完封で勝ったことは覚えているんだけど、あとは全部負けた」
1981年から先発に転向した小松は、江川と先発で8度投げ合い、結果は1勝5敗。その1勝というのが、1987年9月2日に後楽園球場で小松が3対0で完封した試合だ。小松にとって唯一の勝利の記憶は、今でも鮮明に残っているという。
そして小松を驚かせたのは、ストレートもさることながら、江川が真っすぐとカーブの2つだけでプロの打者を抑えていたことだ。
「江川さんは真っすぐとカーブだけだから。それはすごいと思う。なんか途中で"コシヒカリ"や"マスクメロン"と名付けられたボールがあったけど、あんなのはただのおちゃらけ。江川さんのカーブは浮き上がってストンと落ちるんだけど、打者はアゴが上がってしまうからバットが出てこない。本物のカーブです。とにかく、真っすぐとカーブだけであれだけ抑えられるのは、もうすごいとしか言いようがない」
小松は現役17年で通算122勝を挙げ、最多勝2回、沢村賞1回。中日のエースナンバーである背番号20を背負い、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた。
「中日の背番号20といえば、杉下茂さん、権藤博さん、星野仙一さん、オレ、それから宣銅烈、川崎憲次郎......このあたりもどうなんだかなんだけど、どっかの監督が新人に20番を与えてからおかしくなった」
スピードだけなら誰にも負けない自負を持ち続け、プロに入ってもその思いは揺らぐことはなかった。しかし、打席に立って江川の球を見た時、「なんじゃこれ」と慄(おのの)いた。粘るとか、なんとかしようというレベルじゃない。「これはダメだ」と即座にあきらめた。
小松にとってこの衝撃が忘れられず、それ以来、江川卓という存在が自然と大きくなっていった。
(文中敬称略)
つづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している