女優・高橋惠子、15歳で舞い込んだ主演の仕事は“妊娠する女子高校生”という衝撃的な役柄。それからの仕事はいつも大人びた役柄で、徐々に心のバランスを崩して―。若くして世間を騒がせた少女は、ピュアな心を失わずに脱皮を繰り返し、たおやかで美しい69歳に。70歳の節目を目前に、人生を語る。
女優の高橋惠子さんは、来年デビュー55周年を迎える。15歳で芸能界に入り、あらぬ噂もスキャンダルも、落ち着いた結婚生活も、この55年間、さまざまなことがあった。惠子さんは、それらを包み隠さず話してくれた。
自分に正直に真っすぐに生きてきた
「若いころのこと、いまや私の前世みたいに思えるんです。確かにあったことだけど、現在の私と違う感じ。でも、すべては無駄ではなかったと思うんですよ」
そのときどきに、自分に正直に真っすぐに生きてきた。それは、役者という仕事に対しても変わらず、オファーが絶えない。
2025年も、舞台に映画に大忙しだ。3月には『真夜中に起こった出来事』で、戸塚祥太さんとW主演を務める。
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「ヒトラー時代に実際にあった話で、息子がひどい状態で死んでしまう。私は、その母親役。深く感動し、心が激しく揺さぶられる内容です。この舞台の稽古の間に、映画のラストシーンを撮りに行くので、ちょっと重なっているんです」
この映画とは、惠子さんが主役を演じた『カミハテ商店』の山本起也監督の最新作で、ラストシーンは惠子さんの生まれた北海道の原野で撮ることになっている。
さらに、夫・高橋伴明さんの監督作品『桐島です』も公開予定。爆破事件の容疑者・桐島聡が、約50年の逃亡の末に、今年1月に姿を現したことは記憶に新しい。その桐島聡の逃亡人生を毎熊克哉さんが演じる。惠子さんは、出演するだけでなく、プロデュースも担当した。
来年70歳になる惠子さんだが、「デビューした15歳のときよりも、今のほうが気分は若いかもしれない。重いものを背負っていた時期もあったけど、それはずいぶん軽くなって、自由に軽やかになった」と微笑む。
15歳で早熟な少女を演じ、奔放な女のレッテルを貼られる
北海道の原野は、惠子さんの原点だ。1955年、牛や馬を育てる酪農家の両親のもと、標茶町に生まれ、広大な自然の中を片道1時間かけて学校に通った。10歳離れた兄がいたが、13歳で他界。牧場の後継ぎがいないこともあり、お父さんはサラリーマンに転職。定年を迎えると、娘を東京で育てたいと、家族3人で上京した。惠子さんは小学校6年生だった。
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「中学2年のときです。近所の写真屋さんに、家族で撮った写真の現像をしてもらいに行ったら、メガネの奥からジーッと見てくるおじさんがいたんです。写真屋さんのお友達で、大映のカメラマンだったんです」
そのカメラマンから「お宅の娘さんを女優にしませんか」と電話が来た。喜んだのはお父さん。俳優志望だったが断念した過去があり、娘に夢を叶えてほしいと願ったそうだ。惠子さんは、中学を卒業すると大映に入り、3か月間みっちり演技や日舞、体操、歌などの特訓を受けた。
「親も先生も高校に行ったほうがいいと言ったのですが、私は、3年間は集中し、ダメだったら、普通に戻ると決めていました。だから高校は行かず、通信教育を選びました」
15歳で、主役が舞い込む。
「“関根くん、これをやってもらいます”と台本を渡されたのが、『高校生ブルース』。家に帰って台本を読んで、妊娠する高校生役という衝撃的な内容と、上半身裸にならなきゃいけない場面もあって、眠れませんでした。子役ではないんだから、自分で決めると言い張っていたので、親にも相談せず、“はい”と言った以上はやるしかないと覚悟を決めました」
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清楚さとセクシーさを併せ持つ美少女は、1970年、本名の“関根恵子”で、鮮烈デビューを果たす。裸のシーンもある娘の映画を見たお父さんに「よく頑張ったな」と言ってもらえたのが、「ありがたかった」と振り返る。
同年の『おさな妻』では、子連れの男性と結婚する17歳という役。
「子役の女の子に、1か月間、ママ、ママ、と呼ばれていたら、15歳なのに、年をとった気がして、ママが板につきました」
この演技で、ゴールデンアロー賞を受賞。1年半で7本の映画に出演し、休みは年に3日間、正月もなかった。毎日が必死で、家に帰り着くと玄関で寝てしまうほど疲れていた。
「7本の映画のうち、セクシーな場面がないものはなかったです」
おかげで“脱ぐ女優”“奔放な女”というレッテルを貼られる。
「裸になるシーンを“恥ずかしくないですか”と聞かれるんですが、“恥ずかしい”と言っちゃうと、もう立っていられない気がして。本当は恥ずかしさの極致だったのに、“いいえ”と、強がりを言っていました」
大映は倒産し、惠子さんは東宝に移籍。1972年、ドラマ『新・だいこんの花』で、竹脇無我さんの妻役を17歳で演じる。同年から『太陽にほえろ!』にレギュラー出演。石原裕次郎さん、萩原健一さん、松田優作さん……そうそうたる俳優たちと共演しながら、女刑事・シンコ役で人気女優となる。
「10代だったのに、ずいぶん大人びた役ばかりでしたね」
自分とはかけ離れたイメージがひとり歩きし、心のバランスを失って悩むことが多くなる。
新進作家と飛騨で暮らしたり舞台をドタキャンして逃避行
「夜、家に帰るとき空を見上げて北斗七星を見つけると、北海道で見たのと同じ。変わってないよねと確認していました」
自分は変わらないでいたいと思っていたのに、忙しさの中で周囲に流されていたと気づいた。そして裏では大人たちやお金が動き、人間不信に陥っていった。そんな20歳のとき、新進作家の河村季里さんと、雑誌のインタビューで5年ぶりに再会。
「河村さんに、15歳のときはとってもいい目をしていたのに、変わったねと言われ、ショックでした。確かに自分でも、純粋だったころとは違うとわかるんです。この人といれば、この人に導いてもらえば、純粋だったころの自分を取り戻せるのではないかと思ってしまったんです」
彼と一緒にインドに1か月行き、その後、飛騨で2年間過ごした。
「16軒しかない集落の、囲炉裏のある古民家で、家の前にはイチイの木がありました。雪深いところで。私は耐えられたんです、生まれが北海道ですから」
ここで野菜を作り、魚を釣って生活した。肉などの買い出しのために、運転免許を取った。女優業は休業、仕事は、毎月の着物での撮影だけ。電話もなかったので、隣の人が取り次いでくれていた。当時の日本でも珍しい、牧歌的な暮らしだった。
1979年、女優復帰。パルコ劇場の『ドラキュラ』に出演する。しかし、10日ほど舞台に立ったが、残りはすっぽかして失踪。河村さんと日本を脱出していた。“愛の逃避行”と、大変なスキャンダルとなった。
「タイ、トルコ、マレーシアなど転々としながら半年ほどいたでしょうか。死ぬしかないと思って旅をしていたのですが、ある日本人に、この日に帰国しないと命が危ないと占われると、やっぱり命が惜しい。で、その日に帰ったら、空港には多くの報道陣が待ち構えていました。その人に密告されたのだと思うのですが、おかげで、帰国する踏ん切りがつき、皆さんの前で“帰ってきました”と言うことができ、また仕事をすることができたんです」
そのときの惠子さんの姿は実にきちんとしていた、と語り継がれるほどだ。1年間の謹慎を経て、仕事に復帰した。
「それで償えたとは思っていません。多くの人にとても迷惑をかけたし、騒がせてしまいましたから。だから、お仕事の声をかけてもらえるだけでありがたいのです」
「関根恵子は死んだ」結婚を機に高橋惠子に改名
1982年、高橋伴明監督の『TATTOO〈刺青〉あり』で、銀行人質事件の犯人の愛人役を演じる。男からDVを受けながらも、妖艶で気位の高い女の役だ。
「監督は寡黙でしたが、真摯で誠実でした。渡された台本を読んで、これは私が演じなきゃいけないって天啓のようなものを感じ“やらせてもらいます”と。破格に安いギャラでしたが(笑)」
この映画が縁で、27歳で高橋監督と結婚。「“関根恵子”は、死んだ」と言って、“高橋惠子”に改名する。
「関根恵子という名前のイメージを保ったまま結婚生活を送るのは、すごく無理があると思ったんです。自分に近いところから、もう一度女優を始めたかったので。高橋の姓は、夫に相談するわけではなく、自分で決めたことです。彼から高橋になってくれと言われたなら、いやだったかな」
高橋監督とは、映画に対する情熱など共通するものも多く、飾らずに自分を出せる人だった。その分、ケンカもよくした。
とっくみあいのケンカもした。惠子さんの得意技は“頭突き”と高橋監督は明かしている。
「最初の2年は、もう大変でした。ベランダに古いお皿とか置いといて、悔しいときはバーンと割っていましたね」
その後1女1男に恵まれ、子どもを自然の中で育てたいと、東京郊外に家を建てる。
「子育ては大事にしたし、楽しみました。絵本も子どもがいなかったらたぶん読まなかったと思うし、子どもによって、違う窓が開いたという感じ。子どもが親にしてくれたのね」
惠子さんは、子どもたちが少し大きくなるまで仕事をセーブし、学校の行事にも参加。家には、惠子さんのお母さんも同居し、犬や猫も常に何匹かいた。牧場で育った惠子さんにとって、暮らしの中に動物がいるのは、当たり前なのだ。
娘の佑奈さんが、母・惠子さんの思い出を話してくれた。
「母は女優っぽいところがなくて、家庭のことをするのも好きでした。父はしょっちゅう家にスタッフを連れてくるのですが、母はかいがいしく料理を出したりしていましたね。翌朝も仕事なのに大丈夫かな、と子どもながらに思っていました。母は、自分を後回しにしても、家族に尽くすタイプなんですよ」
ユニークな思い出も。
「母は家に帰ると、自分を切り替えるのですが、私たち子どものために、お手伝いさんの役、魔法使いのおばあさん、家庭教師の先生などの役柄になってくれて、ワクワクしたことを覚えています」
お手伝いさんになって家事を片づけたり、魔女の声色で薬を飲ませたりしたそうだ。
その佑奈さんは、13年前から、惠子さんのマネージャーを務めている。
蜷川幸雄さんのオファーで舞台にも復帰
1990年代半ばには、蜷川幸雄さんから、舞台『近松心中物語』の出演依頼があったが断った。
「以前に舞台を逃げ出していましたから、とてもそんな資格はないと思っていました。子どもも中学生と小学生で、地方公演もあるので、2か月近く家を空けなければならないというのもあり、2度断ったんです。そしたら夫が、“こんなチャンスはない。家のこと、子どものことはなんとかするから、やったほうがいい”って。あれから17年たっていましたから“もう時効だよ”とも言われ、お引き受けしました」
そのとき惠子さん、42歳。大役を見事に演じ切り、1997年の初演から2001年まで演じ続けた。以降、次々と舞台のオファーも来て、映画、ドラマと合わせて忙しくなる。
劇作家の田村孝裕さんは、10年ほど前、初めて出演をお願いにいったときのことを話してくれた。
「惠子さんは明治座に出てらして、楽屋に訪ねていったんです。僕たちは名前も知られてない劇団なのに、ストーリーを話したら“面白そうだから、やってみるわ”と即決でした」
それは『そして母はキレイになった』という芝居で、夫と娘を捨てて男と逃げた母が、惠子さんの役。稽古では、監督である田村さんの言葉をスポンジのように吸収し、応えてくれた。
「惠子さんが演じてくれた母親役は、自分の業というか、にじみ出る悲しさが、さすがでした」
公演は好評で各都市で上演したが、自分たちでセットを運びながらの移動だった。
「惠子さんは、セットの搬入や、道具のセッティングを進んでやってくださり、夜は一緒に飲んで、過去のことも話したり。大女優らしいプライドはまったくなく、劇団員みんな惠子さんが大好きになりました。あんなに自分をさらしてくれる女優さんはいない。信頼しています」
同舞台は、再演になり、田村さんは大きな劇場の舞台も、映画やドラマの脚本も書く売れっ子になっていった。2019年の舞台『サザエさん』では、フネ役を惠子さんが演じ、来年は3回目の公演をする予定。
マネージャーの佑奈さんは、女優としての惠子さんをこんなふうに見ている。
「チャレンジしたいタイプ。女優業を長くやっているのに、いい意味でリセットされて、いつも新人さんみたいです。やりたいと思ったら、ギャラに関係なく引き受けます。帝劇のようなところから、小さな駅前劇場まで、劇場の大きさも関係ない」
66歳にしてミュージカルにも挑戦、『HOPE』に主演した。そのときのことを、惠子さんはこう話す。
「歌えるかという不安より先に、やりたいと思ったんです。歌の練習も精いっぱいやって、周りの人もすごく協力してくださって。役をやりきることができました」
それでも、「女優に向いてない、辞めたい」と弱音を吐くこともたまにあるそう。佑奈さんは、
「辞めたいなら辞めれば」
と突き放す。すると「これは私に与えられた仕事だ、感謝しなきゃ」と思い直すそう。
佑奈さん、なかなかの敏腕マネージャーでもある。
年が明けると、惠子さんは70歳になる。
「何歳だからこうでなきゃというのはないし、若くありたい、きれいでいなきゃというのもないです。もうすぐ70歳だなとは思うけど、年は関係ない。最初から15歳らしくなかったし、今は70歳らしくないかな」
なんだか楽しそうだ。
6人の孫たちはもちろん犬や猫、植物にも話しかけるとすくすく育つ
東京郊外の大きな家は、高橋夫妻に、子どもたちと孫、惠子さんのお母さんと4世代9人と、犬3匹、猫11匹、カメ1匹でにぎやかに暮らしたこともあった。
「父は家が建つ直前に亡くなったんです。植物が大好きで、捨てられていた椿の枝を持ち帰って、育てて。それを新しい家の庭に植えたら、咲いたんです。“おじいちゃん、この家に住めなかったけど、喜んでいるね”って家族で話しました」
惠子さんも植物が好きで、木や花にもよく話しかける。舞台に出て、もらった花が廊下に並んでいると「今日もかわいいね」などと話しかけるそう。
「“高橋さん、大丈夫ですか?”と言われ、私についている人が“大丈夫、あれが普通ですから”と答えてくれます。話しかけると、切り花でも持ちが違うんですよ。ちゃんと聞いているというか、感じるんですね。植物でも、動物でも」
惠子さんが仕事で遅くなるときは、お母さんが子どもたちの面倒を見てくれた。子どもたちは寂しい思いをせずにすんだと感謝している。
「母を2年ほど介護した時期があり、毎日一緒に散歩しました。その前に、母が“ヴェニスに行ってみたい”と言うので、イタリア旅行をしたのは、私たち母娘のいい思い出です。今思えば、もっと大切にすればよかったですね」
2015年にお母さんが亡くなり、息子さんも娘さん一家も独立。夫の高橋監督は、京都芸術大学で教えており、東京と京都を行ったり来たりが10年ほど続いた。
「夫婦2人の生活になったので、相談して断捨離しました。母の遺品を整理し、大家族用のソファなどの家具、本や衣類、食器など、思い切りよく処分しました。いただいた受賞トロフィーも、捨てました。ありがたいけど、それにとらわれたくはないと思って。身軽になって、心も軽くなりました」
最近、佑奈さんの住むマンションの1階が空き、郊外の家を手放して、そちらに引っ越した。
「3歳になるビーグルが1匹と猫が1匹いたんですが、娘のところに子犬が生まれたので3匹はうちで飼うことになり、朝は犬猫の世話をして、ビーグルは朝と夕方に散歩しています」
散歩しながらセリフを覚え、健康も維持し、一石三鳥になっている。
佑奈さんは20歳で第1子を出産し、惠子さんは48歳で祖母になった。そして、10月に6人目の孫が生まれた。佑奈さん一家は、8人家族に犬4匹、猫7匹、カメ1匹も同居している大所帯だ。
「20歳になる2番目の孫が赤ちゃん好きで“私が育てる”と、世話をしてくれていて、母乳がよく出る料理を作ったり、健診の日も親より把握しているのよ」
惠子さんは笑うが、
「上の子たちは、もう大きくなったから、下の子の面倒を見てくれるんで、そんなに大変だとは思っていません。動物も小さいときから多かったので、にぎやかなのが普通なんです」
と語る佑奈さんも明るくはつらつとした肝っ玉母さんだ。
そんな佑奈さんだが、人に会いたくないというほど悲惨な目に遭ったことがある。
「庭に植えたおじいちゃんの椿に、ある年、チャドクガが発生したんです。佑奈がやられ、特に顔がひどかった。皮膚科では、これ以上は治らないと言われたのですが、フィリピンの友達が、モリンガのオイルを試してみてとくれたの。それを塗ったら、きれいになって、モリンガのすごさを実感しました」(惠子さん)
佑奈さんは、モリンガのスキンケアブランドを立ち上げることになる。
「“おじいちゃん、何してくれたの”と思ったけど、おじいちゃんのおかげ。どうして?って、いう中に次のヒントや、きっかけがある。経験上、無駄はないです」
惠子さん母娘の前向きな姿勢が、人生にプラスを生み出している。
もっと自分を大切に。頑張ることをやめて楽しむことに
少女時代が人生の第1ステージだとするなら、第2ステージはデビューして世間を騒がせたころ、第3ステージは結婚し、子育てと仕事に忙しかった時期。子どもたちが独立した今は、第4ステージだろうか。
「私という同じ人間なんだけど、変わっていくんですね。脱皮するみたいに」
第4ステージになり、自分に誓ったことがある。
一つ目は、“妻とはこうあるべき”をやめること。
「仕事の流れで飲みにいくことはあったけど、友達と飲みにいくために夜出るってことはなかったんです。自分の中で勝手に、夜遊びに行くべきではないと思い込んでいたんですね。この間初めて、夜、飲みに出たんです。成人している孫と。楽しかったわ」
二つ目は“もっと自分を愛し、大切にする”こと。
「この自分と死ぬまで付き合っていかなきゃいけないんですよ。なので、自分のことをまず愛そう。ダメなところもひっくるめて受け入れよう、そういうふうに思えるようになりました」
高橋監督とは、食べ物の好みが違うそう。監督は、ひじきやきんぴらなどの家庭料理が嫌い。
「それまでは気を使って作らなかったけど、いや待てよ、自分のために作ればいいんだわって。夫が嫌いな煮物もひじきも、自分のために作っています」
三つ目は“頑張ることをやめて、楽しむ”こと。
「若いときは、こうなりたいと目指すものがあると、それに向かって“頑張ろう”って。今は“楽しもう”に変えました。
楽しんで、周りの美しいものをちゃんと感じたり、味わったり、よく聞いたり。散歩していて鳥の声とかするじゃない、ちゃんと聞こうって思うようになったんです」
そして、女優業のほかにやりたいこともある。
「日本文化を海外に伝えたいと、ずっと思っていたんです。
日本人の相手を思いやる気持ちとか、自然を愛でる心とか、着物もなくしたくないと思います。
日本語って主語なしで話すでしょう。私もあなたも、結局はどこかでつながっているというか、そういう感覚をもともと持っているんじゃないかしら。欧米の人たちは、個々がしっかり分かれていて、だからハグをしたりして、一つになろうというのがあるのかな、そんなことを考えているんですよ」
コンピューターやSNSがどんどん進化して、ついていけないと思う人は少なくないはず。でも惠子さんは新しい時代の変化に、わくわくしている。
「どんどん変わってきて、生身の人間とAIが作り出す世界が融合して、そういうのは今までに経験がない、それを体験できるんですよ。20年前には考えられないことが、これからの20年ってもっと変わっていくと思うんです。それが人間にとって、いいカタチになるといい、自然を大事にしてね」
来年の舞台は、ナチスに息子を殺された母の役を演じる。役作りをしながら、今の時代にも思いを込める。
「死んで極楽じゃなく、今、生きているここが極楽になるといいなと思います。人間の争う心とか、人を妬んだり羨んだり、比較したり……心の持ちようで歪めてしまうのはもったいないです。美しいものがいっぱいあって、このままで極楽なのに」
<取材・文/藤栩典子>
ふじう・のりこ フリーライター&編集者。料理、ガーデン、インテリアなど生活まわりを取材・編集。『島るり子のおいしい器』(扶桑社)『上條さんちのこどもごはん』(信濃毎日新聞社)『美しきナチュラルガーデン』、『66歳、家も人生もリノベーション』(共に主婦と生活社)などを手がける。