モノレール登場から200年、なぜ広まらなかったのか LRTにも共通する課題

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2024年12月10日 08:31  ITmedia ビジネスオンライン

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沖縄都市モノレール「ゆいレール」(ゲッティイメージズ)

 2022年はわが国初の鉄道(新橋-横浜間)が、1872年に開業して150年ということで盛り上がった。また、2023年は貨物鉄道150年の節目だった。そして2025年は世界初の実用的な鉄道がイギリスのストックトンとダーリントン間で開業してから200年という、記念すべき年になる。


【画像】1901年に開通したドイツのヴッパータール空中鉄道(提供:Wuppertaler Schwebebahn)


 では、今年2024年はというと、モノレール(1本レールの鉄道)が歴史に登場してから200年目なのである。


●渋滞対策の特効薬として注目


 歴史上、初めて登場したモノレールは、1824年にイギリス人のヘンリー・パーマーが、木材のレールと馬力を用いた貨物用モノレールをロンドンの造船所に建設したものとされる(特許登録は1821年)。2本レールを敷くよりも1本のほうが簡易で安上がりだというのが発案の理由であろう。


 その後、さまざまな形式のモノレールが考案され、研究・実験が進められた。レールに跨がる跨座(こざ)型、レールからぶら下がる懸垂型、さらにジャイロスコープ(回転儀)を用いてレール上に直立させる方式などである。


 だが、2本レールの通常の鉄道が敷設できるのであれば、バランスを取るのが難しいモノレールをわざわざ建設する積極的な理由がなく、パーマーのモノレールの誕生後1世紀の間で、モノレールが営業線として成功したのは、1901年に開通したドイツのヴッパータール空中鉄道が唯一の例だった。


 このヴッパータールという、それほど知名度の高くない都市にモノレールが建設されたのは、川沿いの狭い谷間に市街地が広がっており、川の上空以外に公共交通を走らせる用地を確保できないという特殊な事情によるものだった。ドイツ人技師のカール・オイゲン・ランゲンが開発した「ランゲン式」を採用したこのモノレールは、今なお現役で運行されている。


 モノレールが日の目を見たのは、意外にも戦後の高度経済成長期の日本においてだった。モータリゼーションの進展による交通渋滞は各国の都市で悩みの種になっていたが、道路率(道路面積/土地面積)が極めて低い日本の都市(東京23区10%、ニューヨーク35%、ロンドン23%)において、渋滞対策の特効薬として注目されたのだ。


 街路上空のスペースを有効活用でき、簡易な構造物のみで建設できるため美観を損ねることもない。さらに当時、建設が始まっていた地下鉄と比べて建設費が安価(地下鉄の4分の1程度)で工期も短くて済むとされ、中容量の乗客輸送であれば、モノレールが最適と考えられたのだ。


●海外技術の導入


 こうした中、1957年12月に運行が始まったのが上野動物園モノレール(正式名「上野懸垂線」)だった。同モノレールは、将来の都市交通の実験線という位置付けだったものの、地方鉄道法に基づく「鉄道路線」として最初に建設されたモノレールだった(それ以前のものは「遊戯物」扱い)。ヴッパータールのランゲン式をモデルとしつつ、騒音低減の観点からゴムタイヤを採用するなどの改良を加えたこのモノレールは「上野式」と呼ばれた。


 だが当時、海外ではより近代的な技術を活用したモノレールの研究が進められており、それらが間もなく日本にも輸入されることになる。その一つが、後に東京モノレールに導入された西ドイツ(当時)のアルヴェーグ式モノレールであり、コンクリート製の桁(けた=レール)に跨がり、ゴムタイヤで走行する方式である。日本では日立製作所が技術提携した。


 これよりやや遅れて日本に入ってきたのが、フランスのサフェージュ式モノレールで、パリ地下鉄で実用化済みのゴムタイヤ車両を応用した設計に特徴があった。サフェージュ式は三菱グループが中心となり、後に湘南モノレール、千葉都市モノレールなどで実用化された。


 さらに、米国の航空機製造大手ロッキード社が開発した、「鉄車輪式」のロッキード式モノレールも登場した。


 こうして順調に導入が進むかに思われたモノレールだったが、不運な出来事が続いた。まず、1964年9月に開業した東京モノレールが極度の経営不振に陥ったのだ。建設費が当初予定を大幅に超過したことや民間金融機関からの高金利の融資の返済のため、浜松町-羽田間の運賃を250円(国電と京急バス利用が55円)と高額に設定せざるを得ず、利用者が伸び悩んだのだ。


 また、ロッキード式を採用して1966年5月に開業した姫路モノレール(姫路駅-手柄山間1.8キロ)も、姫路大博覧会が開催された開業初年度こそ年間40万2967人の利用者があったが、1967年度は33万4517人、1968年度は24万5718人と落ち込み、当初想定された年間100万人には遠く届かなかった。建設借入金の返済のために毎年1億円以上を市の一般会計から支払わなければならず、姫路市の「お荷物」といわれるようになった。


 さらに、同じく1966年5月に開業した横浜ドリームランドモノレール(アルヴェーグ式を改良した東芝式)は、車両設計の不備などから、開業後わずか1年半で運行休止に追い込まれた。


●モノレールは“モノ”にならない


 このような事情から、モノレールは“モノ”にならないという雰囲気が業界に広がり、1964年6月に設立されたばかりの日本モノレール協会は、早くも「会費収入の面に危機が現われた」(『日本モノレール協会 10年の歩みをふり返って』より引用)という。


 こうした状況に対し、モノレールの技術的改良と標準化を目的として、モノレール協会が運輸省(当時)からの受託で取り組んだのが「都市交通に適したモノレールの開発研究」(1967年度)だった。


 この研究を通じて跨座型に関しては、二軸ボギー台車と小径のゴムタイヤを組み合わせた日本跨座式という新たな車両規格を生み出し標準化した。客室内にタイヤの格納部が突出して床面がフラットにならないアルヴェーグ式の欠点を改良したのだ。一方、懸垂型はサフェージュ式を標準仕様として採択した。


 技術面の改良と並行して、日本モノレール協会はモノレール関連立法を進めるために国会への働きかけを行い、1969年11月に都市モノレール建設促進議員懇談会が発足した。こうした一連の努力が功を奏して1972年11月、都市モノレール整備の円滑化のための財政措置、道路管理者の責任等を定めた「都市モノレールの整備の促進に関する法律(都市モノレール法)」が制定された。


 ただし、都市モノレール法は「国及び地方公共団体は、都市モノレールの整備の促進に資するため必要な財政上の措置その他の措置を講ずるよう努めなければならない」という抽象的な努力義務を規定しているにすぎず、実際の効果を期待するには、別途、具体的な措置が必要とされた。


 財政措置に関しては、1974年度予算で、都市モノレールのインフラ部分(支柱、桁など)を道路構造の一部として整備する「インフラ補助制度」が認められた。これにより、モノレールが道路の構造物の一部として、国の補助の下に建設される仕組みが整えられたのである。このインフラ補助制度は、1975年度には新交通システムにも対象が拡充された。


 こうして整備の土壌が整ったモノレールは、その後、各地で建設が進められ、現在8事業者の10路線が運行されている。しかし、当初の期待値の大きさからすれば、路線数は少なすぎると言わざるを得ない。


 なぜ、モノレールは広まらなかったのか。


 新交通システムというライバルの台頭もあったが、建設費用が想定していたほど安くなかったのが大きかった。1971年に大船-湘南江の島間(6.6キロ)が全通した湘南モノレールを例に挙げると、当初の建設費は約35億円(1キロあたり約5億円)と見積もられていたが、用地買収費などがかさみ、最終的には60億〜65億円(1キロあたり約10億円)にも上ったのだ。


●広まるLRTの可能性


 昨今は、より低額な投資で実現可能で維持費も安いとされるLRT(低床型車両を用いた次世代型路面電車システム)やBRT(バス高速輸送システム)が広まりつつある。


 日本のLRTの嚆矢(こうし)は旧・JR西日本の富山港線(富山駅-岩瀬浜間 約7.7キロ)をLRT化した富山ライトレール(2020年2月に富山地方鉄道に合併)だ。JR富山港線は、北陸新幹線の延伸に伴い富山駅の高架化が構想されると、多額の投資に見合う利用数が見込めないとされ、高架化せずLRT化することが決定された。


 これを受けて、JR路線としての富山港線は2006年2月末をもって廃止。約2カ月間のLRTへの切替期間を挟んで、同年4月29日に県や市、富山地方鉄道などの地元企業が出資する第三セクターの富山ライトレールとして再スタートした。


 LRT化に伴い新駅の設置、ダイヤ改正(JR時代の1時間1本から4本へ増便・終電時間の改正)、ICカード「passca(パスカ)」の導入、さらにLRTの蓮町駅・岩瀬浜駅に接続するフィーダーバスを運行開始するなど、使い勝手を大幅に改善した。


 その結果、富山ライトレール開業前の2005年度の1日あたりの輸送人員は平日2265人・休日1045人だったが、LRT化後の2006年度は平日4893人・休日4917人と大幅に増加。その後の10年間(2006〜2015年)の平均値を見ても平日4767人、休日3579とLRT化前と比べて平日で2.1倍、休日で3.4倍にまで伸びた。


 また、2023年8月には宇都宮ライトレール(宇都宮駅東口-芳賀・高根沢工業団地間 14.6キロ)が開業。既存路線のLRT化ではなく、新規路線でのLRT開業事例として注目される中、開業1周年を迎えて間もない2024年9月12日には、早くも累計利用者数が500万人に到達した。環境性(低公害・省エネ)や少子高齢化社会を前提とするコンパクトシティー構想とも親和性の高いLRTの可能性の大きさを示したといえる。


●LRTは本当に安いのか?


 だが、一方でLRT化構想を断念した事例もある。富山県内を走るJR城端線(高岡-城端間)・氷見線(高岡-氷見間)もLRT化が検討されてきたが、2023年3月までにLRT化を断念すると結論づけられた。代わりに、国の新たな支援制度(改正地域交通法。2023年10月施行)を活用しつつ、「新型鉄道車両の導入」を含む利便性の向上を目指すことになった。


 なぜ、LRT化が見送られたのか。


 LRT化検討会に提出された資料を見ると、城端線・氷見線のLRT化に必要な費用(車両数は25編成75両を前提)は、架線ありの場合で435億円(うち車両費114億円)、蓄電池式による架線なしの場合で421億円(うち車両費191億円)と試算されている。これは新型鉄道車両26両を導入する場合の131億円(高岡駅での両線の直通化費用30億円を加えると161億円)や、BRT化する場合の223億円(75台分の車両費21億円、道路整備費135億円など)を大幅に上回る。


 また、同資料では富山港線は電化されていたためLRTへの切替えが約2カ月で済んだが、城端線・氷見線は非電化のため、より長期の運休(約2年)が必要となることや、低床型車両は冬季に運行障害を起こすリスクが高いといった点も指摘されている。


 その後の2024年2月8日、城端線・氷見線に関して、あいの風とやま鉄道への事業譲渡を前提とする「城端線・氷見線の鉄道事業再構築実施計画」が国交省から認定された。同計画では、新型車両の導入をベースとする事業費合計を341.2億円(新型車両の導入に173億円、運行本数増加・パターンダイヤ化に44.8億円、高岡駅での両線の直通化に37.8億円など)と試算され、事業費が膨れ上がった印象だ。


 だが、それでもLRT化と比べると、なお割安なのである。もちろんケースにもよるが、「LRTは、地域交通を維持するための選択肢として本当に安いのか」という問題意識が浮き彫りになった事案といえよう。


●筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)


旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。


現在、神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など。



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