『ニッサン・シルビアターボCニチラ(マーチ83G)』空力の鬼才による処女作“シルビア”【忘れがたき銘車たち】

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2024年12月10日 18:30  AUTOSPORT web

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1983年の鈴鹿1000kmを戦ったニッサン・シルビアターボCニチラ。星野一義と萩原光がドライブした。
 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1983〜85年全日本耐久選手権などを戦った『ニッサン・シルビアターボCニチラ(マーチ83G)』です。

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 今回取り上げる車両は、『ニッサン・シルビアターボCニチラ』という車名のマシンである。ただ、名前に“シルビア”と入っているものの、写真を見てお分かりの通り、かつてニッサンが販売していたスポーティーカー“シルビア”の面影はほぼどこにもない──。

 このシルビアを名乗るレーシングカー、『シルビアターボC』がレースを戦いはじめたのは1983年のことだ。

 FIAが1982年より本格発足したグループC規定のスポーツプロトタイプカーによるレースが、1983年から日本でも始まろうとしていた。そして、ニッサンは、この国内でのグループCカーによるレースへ参戦を決断する。

 まず、ニッサンは星野一義が率いるホシノレーシング、長谷見昌弘が率いるハセミモータースポーツ、柳田春人が率いるセントラル20に対しグループC用のエンジンを供給した。そのうえでそのエンジンを搭載するシャシーの選択や、実際のレース運営についてはあくまでユーザーである各チームに一任するという体制で、ニッサンはグループCカーレースを戦いはじめた。

 ただ、ニッサンはエンジン供給だけでなく、市販車の販促を図るため、各ユーザーにエントリー時の車両名として、当時販売していたニッサンのスポーティーカーの車名を名乗らせることにした。その際、ホシノのマシンが名乗ったのが“シルビア”だったのだ。

 ホシノは参戦にあたって、イギリスのマーチエンジニアリングが製作した『83G』という車両を購入した。ホシノが導入した83Gという車両は、のちにF1でウイリアムズ、マクラーレン、レッドブルなどにチャンピオンをもたらして、名を馳せることになる若手マシンデザイナーのニューウェイが、マーチで最初に手がけたマシンでもあった。

 その83Gにニッサンから供給された2.1リッターの直列4気筒ターボエンジン“LZ20B”を搭載。加えて、テールレンズに市販車のパーツを使用するなど、わずかながらシルビアのイメージを演出したフォルムの『シルビアターボC』を仕立て上げた。

 そしていよいよ、シルビアターボCは1983年から全日本耐久選手権などのレースを戦いはじめる。

 当時最強のグループCカーだったポルシェ『956』を相手に、参戦2戦目にしてポールポジションを獲得するなど、いきなり速さを見せる。しかしながら、エンジントラブルが多発するなど、マシンの信頼性が低く、なかなか完走もままならないレースが、1983年、1984年と続いていた。

 そんななか、ニッサンが搭載エンジンの変更を計画。その新エンジンが導入されるまでのつなぎ役として、“FJ20型”というエンジンをこれまでのLZ20Bに変えて搭載することが決まった。

 これが功を奏したか、FJ20型エンジン搭載初戦の1985年全日本耐久選手権の開幕戦鈴鹿500kmでポルシェを上回り、総合2位でチェッカーを受けた。雨にも助けられたとはいえ、大健闘といえるリザルトを残した。

 その2戦後、新たなエンジンを積んだニッサン期待のニューシャシーがデビューを果たす。それと同時にシルビアを名乗ったマーチ83Gは役目を終えたのである。

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