兵庫県は「投手王国」として知られる。2024年は村上泰斗(神戸弘陵→ソフトバンク1位)や今朝丸裕喜(報徳学園→阪神2位)が上位指名されたように、毎年のようにプロ注目の逸材投手が出現する。
そして2025年に注目を浴びる可能性を秘めた好素材がいる。滝川高校の新井瑛太だ。
【中学時代は強豪クラブチームで外野手】
高校2年の時点で最速151キロを計測。身長178センチ、体重78キロと大柄とは言えないものの、恐るべき馬力を内蔵する。右投左打の野手としても高い将来性を秘め、早くもMLBを含めプロ13球団が視察を済ませている。
滝川の近藤洋輔監督は真顔でこんな実感を口にする。
「新井の完成イメージはまだ全然描けないんですよね。高校でピッチャーになったばかりで、一気に伸びてきたので。これからパワーピッチャーになるのか、技術を覚えて巧いピッチャーになるのか、想像できないんです」
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中学硬式の強豪・明石ボーイズでは外野手としてプレーした。新井は当時の自分を「そこらへんにいる選手でした」と振り返る。
「打順は2番とか9番で、バントとか小技でつなぐ脇役でした。一応レギュラーで使ってもらっていましたけど、代わりがいくらでもきくような選手でしたね」
いろんな意味で、今とは別人だった。中学3年時点で身長が170センチにも満たず、体重も60キロ台半ば。唯一の持ち味は肩が強いことだった。新井としてはスポーツ推薦での高校進学を希望していたが、指導者から勧められたのはスポーツ推薦制度のない滝川だった。
「滝川は指定校推薦もいいし、どうや?」
滝川は早稲田大など東京六大学や関関同立(関西大、関西学院大、同志社大、立命館大)など、指定校推薦の実績が充実している。中学で学業面も健闘していた新井にとって、大学への道が拓ける点は魅力に映った。
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【転機となったドラフト1位投手との対戦】
滝川は高校野球界で「古豪」として知られている。甲子園出場回数は春夏合わせて19回。プロ野球界には別所毅彦(元・巨人ほか)、青田昇(元・巨人ほか)、中尾孝義(元・中日ほか)、村田真一(元・巨人)など、多くの名選手を送り込んでいる。
野球部の歴史は過去に一度、途絶えている。兄弟校の滝川二が創設されると、1985年に滝川野球部は廃部に。翌年に再開されたものの、甲子園出場は1980年を最後に遠ざかっている。現任の近藤監督も滝川OBで、独立リーグ・香川オリーブガイナーズではNPBスカウトから注目される存在だった。
近藤監督は滝川に入学した新井のボールを見て、すぐに投手転向を勧めている。
「外野からスピンのきいた球がきていたので、この子がピッチャーをやったらすごいやろうなと思いました」
1年夏まで外野手メインでプレーし、秋の新チームに切り替わったタイミングで投手に本格転向している。つまり、投手になってから1年あまりしか経っていないのだ。
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ただし、軌道に乗るまでには時間がかかった。新井は苦笑交じりに振り返る。
「最初はフォアボールばかりで、ボールを置きにいっては打たれることばかりでした。フォームも力任せで、よく『野手投げ』って言われていました」
転機になったのは2年春の県地区大会だった。強豪・神戸弘陵戦で先発した新井は9回まで2失点と好投する(試合は延長11回、3対4で敗戦)。体をタテに使えるようになり、スライダーなど変化球でもストライクが取れた。
投手として手応えを得たと同時に、強いショックも受けた。対戦相手のエース右腕・村上泰斗が別次元のボールを投げていたからだ。
「村上さんが途中から出てきて、完璧に抑えられたんです。真っすぐの質、変化球の質が自分とは全然違いました」
ドラフト1位でプロに進むことになる村上の姿は、新井にまぶしく映った。その一方で、村上も1学年下の新井に強いインパクトを受けたようだ。後日、村上に聞くとこんな反応が返ってきた。
「新井くんは2年生の時点であれだけ投げられていればすごいと思います。まだ粗いと言っても、自分の高校2年時と比べたら上ですよ。これからが楽しみですね」
新井が村上に衝撃を受けたように、村上もまた1学年上の逸材に衝撃を受けた経験がある。村上は1年前のエピソードを教えてくれた。
「滝川二高の坂井さん(陽翔/現・楽天)を見て、『落ち着きがあって、経験値が違う。変化球の精度やコントロールはレベルがちゃうな』と驚きました。すぐに坂井さんの投げていたカットボールを練習しました」
坂井から村上、そして村上から新井へ。まるで兵庫県内でバトンをつなぐように、好素材の先輩からの影響を受け継いでいる。
【ワインドアップへの憧れ】
そして、新井は同学年の逸材からも影響を受けている。明石ボーイズ時代の同期生だった福田拓翔(東海大相模)である。新井は今も福田と連絡を取り合っているという。
「変化球の握りとか教えてもらっています。彼はスライダーのキレがいいので、リリースの感覚を聞きました。それを自分の感覚に落とし込んで、試行錯誤しています」
中学時代、新井にとって「絶対的なエース」は福田だった。センターのポジションから見つめるマウンド上の福田は、いつも両腕を高く頭上に掲げる「ワインドアップモーション」。そして今、新井もまたワインドアップでマウンドに立っている。
「ワインドアップが憧れだったんです。もちろん、彼(福田)もワインドアップでしたし、あのフォームが格好よかったというのも、自分がワインドアップをやる理由のひとつになっています」
ワインドアップにして以来、新井は徐々に投手らしい腕の振りになっていった。今の課題は「動きの再現性」。実戦経験を積むなかで、少しずつ「こう投げればここに行く」という感覚を磨いている。かつては指定校推薦に魅力を感じて滝川に進学したが、今は高卒でのプロ入りを視野に入れてトレーニングに励んでいる。
来年はどんな存在になっていたいか。そう尋ねると、新井は笑顔でこう答えた。
「『古豪』って言われるのは面白くないので、対戦相手が『イヤなチームだな』『当たりたくないな』と思われる存在になりたいです」
じつは、新井は甲子園球場でプレーしたことがある。明石ボーイズ時代に出場したタイガースカップで、甲子園の土を踏みしめたのだ。当時の感慨を新井は今も忘れていない。
「ほかの球場とは比べ物にならないくらい、広く感じました。おわん型のスタンドに囲まれて、野球をやっていること自体が不思議な感覚でした。自分はセンターを守っていたので、視界が広がる感じがありました。もちろん次は、マウンドに立ちたいです」
冬を越え、春を迎えた頃に新井瑛太はどんな姿を見せてくれるのか。投手王国・兵庫は、また新たな血脈をつなごうとしている。