ペルージャの物語(前編)
ペルージャはローマから170キロ離れた、人口約16万5000人の町だ。イタリアのちょうど真ん中にあるので「イタリアのへそ」と言われ、豊かな自然に囲まれた丘の上にあるので「イタリアの緑のハート」とも呼ばれている。
その歴史は古代ローマ帝国以前のまでさかのぼり、エトルリア時代の遺跡と中世の美しい街並みを残す。小さな町だが、ペルージャ大学のほかに外国人大学があるので国際色豊か。毎年、世界的なジャズフェスティバルも開催される。黒トリュフが名産で、シーズンになると街中のレストランでは新鮮なトリュフのパスタが味わえ、また世界的に有名な「Baci(バーチ)」というチョコレートもこの町の生まれだ。
しかし、日本でペルージャという町が広く知られるようになったのは、サッカーにおいてだろう。
1998年から2000年まで、中田英寿がペルージャ・カルチョに在籍し、セリエAの舞台で戦っていた。デビュー戦で中田がユベントス相手に決めた2ゴールは、ペルージャのサッカーが強かった時代のひとつの象徴として、今でもこの町の人々の記憶に強く残っている。中田がペルージャでプレーしていた頃は、ちょうどペルージャ・カルチョの黄金時代だった。
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ペルージャの歴史は長い。創立は1890年。15 世紀のペルージャ領主、ブラッチョ・ダ・モントーネにちなんで、当時はブラッチョ・フォルテブラッチョ・ジムナスティッククラブと呼ばれていた。1970年に初めてセリエAに昇格し、1979年にはミランに次いで2位になったこともあったが、その後またセリエBとCの間で低迷していた。
そんなペルージャに転機をもたらしたのはローマ出身の企業家ルチアーノ・ガウッチだった。1980年代にローマの副会長を務めていたが、会長選に敗れると、ローマを去り、1991年、当時セリエCで苦戦し、破産寸前だったペルージャを、前オーナーから購入した。
よそ者のガウッチはペルージャの人々には受けが悪かったが、それでもすぐにチームをセリエBに昇格させ、1996年には15年ぶりにセリエAへと導いた。この時は1シーズンでまたBに戻ったが、その後、1998年にセリエAに復帰。そのタイミングで獲得したのが、フランスW杯で爪痕を残したばかりの中田だった。
【日本人選手のイメージを一変させた】
W杯初出場の日本を牽引した選手として、中田はヨーロッパでも注目を浴びていた。ガウッチというのは、とにかく目立つことが大好きな人物だ。10以上のチームが中田をほしがるなか、勝ち取ったのはガウッチだった。もちろんこの移籍には、中田やその周囲の意向もあったことだろう。いきなりビッグクラブにチャレンジするより、まずはセリエAでも末席のチームでイタリアに慣れるほうがいい。中田のその後の活躍を見ると、この選択は賢明だった。
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中田がデビューした日のペルージャは異様だったと、当時取材をしていたイタリア人記者は言う。小さな町が日本人だらけで、スタジアムも日本人で満杯、記者席にも多くの日本人記者がいて、まるで東京にいるようだったという。対戦相手のユベントスにはアレッサンドロ・デル・ピエロもジネディーヌ・ジダンもいたが、この日の主役は中田だった。
ガウッチは、はったりの多い人物として知られていたが、中田に関しては正しかった。中田を獲得した時、ガウッチは「これは賭けではない。確信だ」と述べたが、それは本当だった。中田はここペルージャでその才能を見せ、それまでの日本人選手のイメージ――ヨーロッパが日本人を獲得するのはジャパンマネー狙い――払拭をし、イタリアの人々に日本のサッカーが変わりつつあることを理解させた。中田はペルージャの歴史のなかで、唯一、バロンドールにノミネートされた選手ともなっている(1998年、1999年)。
中田のほかにペルージャでプレーした有名選手といえば、すぐに思い浮かぶのは、のちに世界チャンピオンとなるジェンナーロ・ガットゥーゾとマルコ・マテラッツィだろう。
闘犬ガットゥーゾは実はペルージャの下部組織育ちで、1990年、12歳からペルージャに所属している。1996年17歳でトップチームデビューを果たし、チームのA昇格にも貢献した。また、マテラッツィは1995年から2001年まで断続的にペルージャに在籍。中田とも半年間、ともにプレーしている。最後のシーズンではキャプテンも務め、12ゴールを決めてDFによるシーズン最多得点記録を塗り替え、イタリア代表デビューの足がかりとした。
【サッカーからバレーボールへ】
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ちなみにガウッチは、中田以降も"サプライズ"にこと欠かなかった。アジア人の"二匹目のどじょう"を狙ってセリエA初の中国人選手、馬明宇(マー・ミンギュ)を獲得。それが失敗だとわかると、代わりに誰も名前を知らないトリニダード・トバゴの選手を連れてきた。リビアのカダフィ大佐の息子サーディを獲得したのも、イランからラフマン・レザイーをヨーロッパに連れてきたのも彼だった。
2000年に韓国の安貞桓(アン・ジョンファン)を連れてきたのも彼だったが、2002年日韓W杯の決勝トーナメント1回戦で、彼がイタリア相手に決勝ゴールを決めると、ガウッチは「イタリアサッカーを台無しにした人物に給料を払うつもりはない」と言ったとされ、結局、チームから契約を解除されている。
性格的にはかなり激しく、少しでもうまくいかないと、シーズン中に何度も監督の首をすげ替え、選手を入れ替える。私生活も破天荒で、34歳差の息子の彼女を奪い、2005年には負債を抱えたペルージャを破産させた。しかし、実はそれが脱税目的の偽装倒産であることが発覚すると、ドミニカ共和国に逃亡、2020年に81歳で客死した。余談だが、ガウッチは競馬も好きで、有名な競走馬トニービンの馬主でもあった。
ガウッチが去ったペルージャは、経営陣を一新、セリエCから再出発しなければならなかった。しかしその5年後にはまた破産し、今度はプロ登録をはく奪されアマチュアチームとなってしまう。翌年にはどうにかプロに返り咲いたが、現在はセリエBとCの間を行ったり来たりしている状況だ。
かつての華やかな時代を知るペルージャの人々は、チームの衰退に長年、溜息をついてきた。ただここにきてペルジーノ(ペルージャ人)の心と誇りを満たす存在が、予想しないところから現われた。シル・サフェーティ・ペルージャ。プロバレーボールのチームだ。この町は今、「シル」の活躍に歓喜している。そして奇しくも現在、そのチームの中心にいるのが日本人選手の石川祐希だ。
(つづく)