グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はUiPathカナダで「Generative AI Solutions Architect」として働く隈元大樹さんにお話を伺う。東京で生まれた隈元さんが、どのようにエンジニアとなり、UiPathのカナダオフィスで働いているのかをたどる。
聞き手は、AppleやDisneyなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。
●おもちゃを横取りされても怒らず、すぐ別の楽しいことに目を向けた
阿部川“Go”久広(以降、阿部川) いまお幾つでいらっしゃいますか。
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隈元大樹(以下、隈元さん) 32歳です。大学を卒業するまで東京の八王子で育ちました。
阿部川 どんなお子さんでしたか?
隈元さん 性格的にはマイペースで平和主義。よく言うと楽観的、悪く言うと“どんくさい”子でした。母によると、公園で遊んでいて誰かにおもちゃを横取りされても対抗することなく、「じゃあ他の面白いことをやろう」とすぐ気持ちを切り替えて遊ぶ子だったそうです。
阿部川 それは性格が分かる象徴的なエピソードですね。
阿部川 得意な教科や好きな教科はありましたか?
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隈元さん 小学校と中学校で特に好きだったのが図工でした。部品から何かの仕組みを作り出す過程がとても面白くて、熱中していました。暗記系は苦手でした。
阿部川 暗記はAI(人工知能)に任せたらいいんです(笑)。図工ではどんなものを作りましたか?
隈元さん よく覚えているのが木材で作るピンボールです。ビー玉を引っ張ってポンって飛ばすゲームです。今考えると、プログラミングも図工と同じ感覚ですね。図工は現実世界の物質を使いますが、プログラミングは概念に落とし込んで何かを作り出します。
阿部川 スポーツは?
隈元さん 中学で野球部に所属しておりました。練習はきつかったけれど、雨の日も寒い日も仲間と一緒に練習するのはとても良い経験でした。
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阿部川 なぜ野球だったのでしょうか。サッカーとか他にもスポーツはあるのに。
隈元さん 小学校の頃父とよくキャッチボールをしたり、友達と草野球をしたりして楽しかったから、野球に打ち込んでみたいと思うようになったからです。サッカーは本当に下手過ぎても何もできませんでした。高校では長距離走が得意でした。
阿部川 長距離走では大会に出たのですか?
隈元さん 高校で陸上部に在籍しており、2回ほど都大会に出場し、チームで幾つかの駅伝にも参加しました。でも陸上は高校の途中で辞めました。ずっと海外を経験したくて、高校でオーストラリアへ2週間ホームステイに行かせてもらったのです。
そこで世界が広がりました。もっと世界を探求したい、自分が知らない世界をもっと見たいという思いが湧き出てきて、「高校を辞めて、世界で自由にいろいろなことをやりたい」と親や学校に相談しました。すると「高校は卒業してくれ」と説得されて。そのときに陸上部を辞めて、テストのためではなく実用的な英語の勉強に取り組みました。当時は親に心配させてしまったと思いますが、小さい頃からどんくさい私に伸び伸びと好きなことをやらさせてくれ、私の思いを真摯(しんし)に受け止めて聞いてくれ、決して安くはない学費をためて私立の中・高・大学に入学させてくれたことを大変感謝しています。
●ホームステイで世界が変わり、ワーキングホリデーで開眼した
阿部川 オーストラリアの2週間は人生を変えましたね。その頃からプログラミングをやろうと考えていたのですか?
隈元さん そこまではなかったですね。ただ、テクノロジーにはとても興味がありました。よく覚えているのは、高校生の時に登場した「iPod touch」です。それまでモバイルデバイスといえばガラケーくらいで、基本的に電話とメールを使う程度でした。そんな中、iPod touchはタッチスクリーンで操作できるし、写真も撮れる。インターネットもできるし、音楽も聴ける。すごい時代が来たなと。その頃からテクノロジーって面白そうだと思っていました。
阿部川 コンピュータとの接点は今のところない感じで、明治大学に進学します。大学では何を学ばれましたか?
隈元さん 経営学部経営学科に入りました。将来やりたいことが定まっていないなかった中、明治大学の経営学部は経営論以外にも「英語」「プログラミング」「会計」など、社会人になってから実用的なスキルが幅広く学べる学部だと思い、経営学部を選択しました。
阿部川 大学時代に熱中したことはありますか。
隈元さん 休学してワーキングホリデーでカナダに行ったことです。モントリオール大学からの交換留学生たちに聞くと、モントリオールはフランス語圏だけどダウンタウンは英語を話す人が多いし、あまり日本人がいないらしいので、英語を学ぶには好都合だと考えました。
阿部川 ワーキングホリデーではどんな仕事を?
隈元さん ラーメン屋さんと日本食レストランのウエーターをやりました。語学学校は日本の学校と同じなので、現地で日本語を勉強したい人たちとの交流にフォーカスしていました。初めて英語で夢を見た時は感動しました。
阿部川 日本語を教えることもありましたか?
隈元さん はい。カナダだけではなく、世界各国の人たちと話しました。日本語が上手な人もいて、英語と日本語の両方で交流を楽しみました。印象的だったのは、文化や言語が違えど、人間根本は変わらないなと感じたことです。
阿部川 ある意味開眼したんですね。根底では人間は変わらない。だから大丈夫だろうみたいな。その間もエンジニアリングの仕事に就く考えはなかったのですか。
隈元さん 選択肢の一つとして常に考えていました。場所を選ばず自由に働ける職業って、あまりありません。その点、プログラマーはいい候補です。モントリオールで交流した人たちのなかにはプログラマーも多く、どんどん興味を持ち始めました。
●ワークスアプリケーションズでプログラミングや技術の下地を学ぶ
阿部川 カナダから帰国し、2017年に明治大学を卒業しました。そしてワークスアプリケーションズに就職します。なぜ、同社を選んだのでしょうか。
隈元さん カナダから帰国後、来日している留学生と日本人が集う言語交換会を自主的に開催していました。そこで今の妻となるカナダ人女性と出会い、交際を始めました。そのときから結婚を視野に入れていて、彼女がいつかカナダに戻りたいという意向があったので、いろいろな国で働けるスキルを身に付けることを考えました。それでプログラミングに本気を出すことにしました。
当時、ワークスアプリケーションズは従業員が6000人、毎年800人もの新卒を採用していて、研修が有名でした。入社から半年間、研修兼実務のような形で働けました。名物創業者の牧野社長が、「新卒の教育は、半分は慈善事業」と話していました。若い人たちにいろいろな知識を身に付けてもらい、ワークスを卒業した後にも活躍できるようにとの思いがあったそうです。牧野社長に感謝しています。
阿部川 経営者が若い人たちに「力を付けて外に出ていけ」とは、なかなか言えないことですよ。
隈元さん ワークスアプリケーションズの研修はただ「健康管理システムを作れ」でした。自分で要件定義して、どういう問題を、どのように解決するのかを全て考える必要がある研修でした。僕にはこの方法が向いていて、大学のプログラミングクラスはすぐつまずいてしまいましたが、ワークスの研修ではプログラミングの基礎知識を順調に身に付けられました。
阿部川 ワークスさんの学ばせ方も素晴らしいし、それに隈元さんが適応して自分の強さを認識できたのも素晴らしいと思います。プログラミングというと記述方法を教えがちですが、大事なことは問題解決能力や課題定義です。プログラミングは後からでもいい。ワークスには何年ぐらい在籍したのですか?
隈元さん 約2年です。
阿部川 その間はどんなことをしていましたか?
隈元さん 開発部門に配属されましたが、開発過程の問題を解決するエンジニアという特殊なロールにアサインされました。あえて名前を付けるとしたら、「問題解決人」や「プロセスエンジニアリング」でしょうか。
例えば、エンジニアが何かの機能を使うときに参照する情報がなくて困っていたら、解決法はドキュメント管理システムの開発、またはドキュメント自体の作成かもしれません。他には、何かを設定する機能でバックエンド側は開発できたけど、フロントエンド側がまだなら、バックエンド側に設定データを与えるために、僕が簡単なスクリプトやツールを作って設定できるようにするとか。自主性を持って、自分で問題を見つけて、自分で好きなように解決できました。
阿部川 隈元さん以外に、そのロールの人はいたのですか?
隈元さん いなかったですね。製品開発のチームは中国にいるので、たまに英語でやりとりもしました。
ホームステイで世界と出会い、ワーキングホリデーでその魅力に取りつかれた隈元さんは、「いつか海外で働く」ために着実にスキルを身に付けていった。後編は、隈元さんがカナダに移住することになったいきさつと、カナダでの生活や仕事の様子を伺う。
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