川崎のトロリーバスが開業したのは1951(昭和26)年3月。市中心部と臨海工業地帯を結び、工業都市・川崎の通勤需要を支えたが、活躍した期間は短かった。1967(昭和42)年4月の廃止後、その車両(104号車)が1台、高津区の二子塚公園に保存されていたが、このほど老朽化のため撤去されることに。
解体されることが決まっていたが、そのことを知った鉄道愛好家が譲り受け、今後、補修した上で、別の展示施設での保存を目指すことになったという。車両は2024年12月21日午前中、二子塚公園からトレーラーで搬出された。
川崎のトロリーバスの歴史は、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜著、2024年10月神奈川新聞社 刊)に記されている。以下、同書の内容を一部抜粋しつつ、その軌跡をたどってみることにしよう。
全国で4番目、関東では初の「トロバス」
電車なのか、バスなのか。戦後の復興の最中(さなか)にあった川崎に、風変わりな乗り物が登場した。その名はトロリーバス、略して「トロバス」である。見た目はバスと一緒だが、日本語の名称は「無軌条電車」。屋根上にトロリーポール(集電装置)は付いているけれど、レールはない。なんとも不思議な乗り物である。
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関東で最初に登場したのが川崎市営で、1951(昭和26)年3月の開業。全国では4番目ということになる。すでに立派な市電の路線網を持っていた東京や横浜と異なり、川崎には戦時中に急ごしらえで敷設された、わずかな距離の市電しかなかったのが“関東初のトロバス”の栄誉を手にできた理由だろう。
ちなみに、川崎は電車(大師電気鉄道=現・京急大師線)が登場したのも関東初であった。
トロリーバスが登場した理由
ところで、電車とバスをミックスしたようなトロリーバスが、なぜこの時期に登場したのかといえば、1つには当時の燃料事情があった。戦前、戦中と石油の輸入を断たれて苦しい思いをした我が国。燃料事情は、今後もどうなるかは分からない。当時はガソリン不足のため、バス会社にはまだ代燃車(木炭などを燃料とする車)が残っていた時代である。
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しかし、実際に導入してみると、デコボコな道路やカーブで屋根のポールが外れやすく、乗務員泣かせな乗り物であった。
さて、川崎のトロリーバスは川崎駅前から市電の池上新田を結び、さらに1954(昭和29)年8月には、埋め立て地の水江町まで延伸された。
その後、川崎駅前の道路混雑が激しくなると、起点の古川通り(小美屋デパート前)でのUターンが困難となり、1962(昭和37)年からはテニスのラケット状の経路(川崎駅付近が、両回りの循環線)を走るようになった。
わずか16年で廃止に
このように市中心部と臨海工業地帯を結び、工業都市・川崎の通勤需要を支えたトロリーバスであったが、活躍した期間は短かった。レールがないとはいえ、架線に沿って進まなければならず、渋滞時に小回りが利かないのは市電と同様であり、また、ディーゼルバスの発達により、動力費における優位性もなくなった。
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【写真ギャラリー】川崎のトロリーバス、搬出作業の様子など
最後に、川崎の“幻の乗り物”トロリーバスの保存車両が二子塚公園から搬出される様子などを写真で記録しておこう。――編集部より――
書籍『かながわ鉄道廃線紀行』の筆者、森川天喜氏によると、現在運行されているJR川崎駅前発の市営バス「川10系統」水江町行が、かつてのトロリーバスと同じ経路を走っているとのこと。同書では横浜、川崎、小田原の路面電車など、かつて神奈川県に存在した11の鉄道廃線跡を紹介しています。
森川天喜 プロフィール
神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など(文:森川 天喜)