大谷翔平とともにMLBに新たな歴史を刻んだ日系人がいた ドジャース実況アナが抱く「アジア系アメリカ人」の誇り

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2024年12月29日 07:20  webスポルティーバ

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第1回(全3回):MLBチーム初のアジア系実況アナインタビュー

大谷翔平とロサンゼルス・ドジャースにとって、特別なシーズンとなった2024年。
その活躍を実況アナとして伝え続けたのは、MLBのチームとしては史上初めてアジア系アメリカ人の実況アナウンサーとなったスティーブン・エツオ・ネルソン氏(35歳)だ。

2023年にドジャースに採用されたネルソン氏はアメリカ生まれの日系4世。そのバックボーンに誇りを持ち、実況を通してどのような思いを抱いてきたのだろうか。

【大谷の偉業を伝え続けた2024年】

 日本人選手がメジャー球団の「顔」としてチームをポストシーズンに導き、強敵を次々と撃破して世界一に輝く──。大谷翔平は初めて、この偉業を成し遂げた。

 その瞬間、もうひとつの歴史が生まれていた。2023年にロサンゼルス・ドジャースの実況アナウンサーとして採用され、MLBチームで初のアジア系実況アナとなったスティーブン・エツオ・ネルソンが、同じ場所からマイクを通してこの快挙を伝え続けていたのだ。

 大谷が最後のアウトを確認し、フィールドへ駆け出す。そして、世界一の歓喜のなかでチームメートと次々に抱き合う。その光景を見ながら、ネルソンの声がラジオを通して世界中に届く。

「Swarm of Dodgers on the right side of the infield. Grown men but children again, living out their dream.」
──「内野の右側にドジャースの選手たちが集まっています。大人たちが子供のような笑顔を見せながら、夢を叶え、その瞬間を存分に味わっています」。

 大谷の栄光とともに、アナウンサーの声も歴史に刻まれた。

 ドジャースの実況アナと言えば、野球殿堂入りのビン・スカリー、20世紀前半にパイオニアとしてニューヨークで名声を博したレッド・バーバーなど、アメリカ野球史に残る偉人たちの名前が挙がる。現在は2017年にスカリーの後継者となったジョー・デービス(37歳)が一番手だが、ネルソンは二番手としてテレビで60試合、ラジオで40試合くらいを担当する。そしてこのポストシーズンでは主にラジオの実況アナを務めた。

 地区シリーズ対サンディエゴ・パドレスの第1戦、2回裏の大谷の同点スリーランホームランはこう伝えた。

「The Dodgers trailing by three. Cease into his windup. And Ohtani lights it up! Lights it up! Welcome to the postseason! The game's brightest star, ready for the game's biggest stage! A game-tying three-run homerun! The fire you saw come out of Ohtani after the homerun, too.Off the bat, was barking before he was halfway down the line」
──「ドジャースが3点を追いかけます。シースが振りかぶり、大谷が打ち砕いた! 打ち砕きました! ようこそポストシーズンへ! ゲームの最高のスターが、最大の舞台で輝きを放っています! 同点に追いつくスリーランホームラン! 打った直後に見せた大谷の燃え上がるような闘志も印象的です。一塁ベースラインを走りながら吠えていました」。

【スポーツ報道を志した日系4世の歩み】

 ネルソンは、日系4世である。南カリフォルニアで生まれ育った。

「私の先祖は熊本出身だと聞いています。曾祖父母がハワイへ移住し、オアフ島で農業に従事しました。その後、祖父母の代に一家はロサンゼルスへ移り、そこで母が生まれた。母はロサンゼルスで育ち、リトル東京にある全米日系人博物館の設立メンバーとなり、長年そこで働きました。

 母方の姓は、漢字はわからないですが、『クラオカ』です。母の名はフローレンスですが、ミドルネームは『キクエ』、そして私のミドルネームもエツオです。私のふたりの息子も日本のミドルネームがあります。私たち一家にとって、先祖が日本から来たという事実は非常に大きな意味を持っています。

 しかし、日常生活では日本語をほとんど話しません。『仕方がない』などの簡単なフレーズを除けば、使うことはほとんどありません。私自身、子どもの頃に2年間ほど日本語学校に通い、高校でも少し日本語を学びましたが、今ではほとんど記憶に残っていません。ただ翔平や(山本)由伸がドジャースにいるので、少しずつ思い出そうとしています。

 長男はオレンジカウンティの日本語学校に通っており、先日も私の母と一緒に日本語の本を読みながら勉強していた。彼が学んでいる姿を見ると、私も日本語をもっと思い出したいという気持ちが強くなります」

 高校はオレンジカウンティのハンティントンビーチにある高校で、その後、地元のチャップマン大学に進学。放送ジャーナリズムを専攻した。

「もともとはプロのアスリートを目指していました。さまざまなスポーツに挑戦しましたが、特に得意だったのはゴルフとアイスホッケーです。しかし、高校生の早い段階でプロになるのは難しいと気づきました。それでもスポーツに携わりたいという思いが強く、アナウンサーを目指す方向に切り替えました。

 南カリフォルニアで育ったのは幸運でした。地元のテレビ局「ABC7」には日系人のロブ・フクザキさんがいて、彼が毎日スポーツを報じる姿をテレビで見ているうちに、『自分にもできるかも』と思えるようになりました。

 さらに、ロサンゼルスにはすばらしい実況アナがいました。ドジャースのビン・スカリー、NBAレイカーズのチック・ハーン、NHLキングスのボブ・ミラーです。彼らの声を聞きながら、多くを学びました」

 筆者もロブ・フクザキをテレビで長年見て知っている。1994年にロサンゼルスのローカルニュース局で初の日系人スポーツアンカーとしてキャリアをスタートした。コービー・ブライアントへのインタビューなど、数々の重要なスポーツイベントや人物を取材していた。2016年には南カリフォルニア・スポーツ・ブロードキャスターの殿堂入りを果たし、スカリーやハーンと並ぶ名誉を手にした。そして今年、ニュース番組内で就任30周年を祝っていた。

【「初めてはすばらしいが、決して最後になってはいけない」】

 大学卒業後の2011年、ネルソンはイリノイ州のプロアイスホッケーチームでマルチメディア担当としてキャリアをスタート。その後、オレゴン州ユージーンの地元テレビ局、ターナースポーツ傘下のブリーチャーリポートを経て、2018年3月からはMLBネットワークとNHLネットワークでの勤務を開始した。同年は奇しくも、大谷がメジャーリーグでデビューした年でもあった。

「ただ、その年は公式戦で実況を担当する機会はありませんでした。初の実況は同年のアリゾナ・フォールリーグでした。2019年には日本で開催されたオールスターシリーズを任されました。フアン・ソト(現ニューヨーク・メッツ)やロナルド・アクーニャ(アトランタ・ブレーブス)が日本に行きましたが、私はニュージャージー州のブースから実況していました。午前1時頃に起きて仕事に臨む必要があり、大変でしたね。

 2022年にはApple TVの『フライデーナイトベースボール』で実況を担当し、2023年からドジャースに採用されました。キャリアが驚くほど早いペースで進んでいますが、正直なところ、実況アナとしてはまだまだ勉強中です」

 2023年からはスポーツ専門局・ESPNの看板番組『スポーツセンター』のアンカーのひとりにも加わっている。

 アメリカは多様性を重視する社会だ。異なる背景やアイデアを持つ人々が集まることで、社会がよりよくなるという考え方に基づいている。しかし、その実現には時間がかかる。

 たとえば、ジャッキー・ロビンソンの例が象徴的だ。ご存じのとおり、かつてのMLBではアフリカ系アメリカ人選手が排除されていた。野球は、優れた打者でも10回中7回アウトになる(打率3割)スポーツであり、知性、冷静さ、そして忍耐力が求められる。しかしかつての米国社会では、アフリカ系アメリカ人にはそれができないと決めつけられていた。

 そんななか、ロビンソンは人種差別主義者たちによる執拗な嫌がらせや虐待にも屈せず、冷静にプレーを続け、確かな結果を残した。反抗することなく、卓越したプレーで自身の価値を証明した。その姿勢と実績により、彼は認められた。ロビンソンの偉業はアメリカ社会の意識を大きく変え、その後の1960年代に起きた公民権運動へとつながる重要な一歩となった。

 かつては、日系人やアジア系の人々についてもステレオタイプな見方が存在していた。たとえば、数学は得意でも運動は苦手、器用だが体力では劣る、というようなイメージだ。なかには、真珠湾攻撃や、日本車の輸出でアメリカ人の職が奪われたことなどで、こそこそした、ずるい人々という偏見を持つ人たちもいた。感情を表に出さず、何を考えているかわからないという誤解もあった。そしてアジア系はスポーツ界のみならず、映画や音楽業界においてもスーパースターを欠いていた。

 それが大谷翔平の登場により、イメージは大きく変わろうとしている。押しも押されぬMLBの看板選手だし、ネルソンもスポーツ報道の世界で着々と存在感を高めつつある。

 MLBチームで初めてアジア系の実況アナになったことについて、ネルソンはこう語った。

「とても誇りに思っており、私のキャリアのなかで最も意義深い出来事だと感じています。この仕事を通じて、ほかの若いアジア系アメリカ人にインスピレーションを与えたいという思いが強くあります。毎日そのことを意識しながら仕事をしていますが、それが同時にプレッシャーでもある。初めてであることはすばらしいですが、決して最後になってはいけない。

 日本人メジャーリーガーが、マッシー村上のあとに野茂英雄や伊良部秀輝と続いたように、私の後にも日系の実況アナが続いてくれることを願っています」

第2回(全3回)につづく

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