連載第31回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、現在ベスト4までが出揃った全国高校サッカー選手権大会について。今大会で103回目を迎えましたが、ここまでのビッグイベントになったのには、48年前のスリリングな決勝戦のインパクトや、大会で強さを示してきた名門校の存在があります。
【ベスト4が出揃った今大会】
全国高校サッカー選手権大会は1月4日に準々決勝が行なわれ、ベスト4が決まった。流通経済大柏や前橋育英といった実力校。そして、初出場でベスト4進出を決めた東海大相模など、顔ぶれは多彩だ。
この大会はノックアウトトーナメントであり、しかも「準々決勝までは延長なし」というレギュレーションのため、波乱や番狂わせが起こりやすい。
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今年度も、前年度優勝の青森山田や、高円宮杯プレミアリーグファイナルでJリーグ勢を制して優勝し、優勝候補ナンバーワンの呼び声が高かった大津が、準々決勝を待たずに姿を消した。
もっとも、大津の敗退は同じ優勝候補の流通経済大柏と3回戦で当たってしまった組み合わせによるもの。実際、流通経済大柏と大津の一戦は、テクニック、戦術、フィジカルとあらゆる点においてハイレベルで、とても緊迫した好試合だった。
もうひとつの注目校、静岡学園は準々決勝で東福岡とスコアレスドローの末にPK戦で涙をのんだ。
東福岡は徹底した守備作戦。静岡学園の選手がボールを持つと、2人、3人、4人で取り囲んで相手にスペースを与えなかった。もっとも、守備の意識が強かった分、ボールを奪ったあとに攻撃につなげることができず、シュート1本に終わった。
しかし、静岡学園の敗退は自滅のような気もした。今年もさすがに個人技のレベルは高かったが、それが攻撃にうまくつながらなかったからだ。
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東福岡の守備戦術が奏功したのと同時に、静岡学園の攻撃力が足りなかったのも事実。攻めのスピードが足りなかったし、ドリブルやパスで相手の分厚い守備を切り崩すには、テクニックの精度をさらに上げる必要があった。
【かつては日本サッカー界最大のイベント】
高校選手権というのは伝統ある大会なので、僕たちは「静岡学園だから個人技が高いはず」とか「静岡勢だから優勝候補」といったように、ついつい固定観念で判断してしまいがちだ。
だが、高校チームはJリーグとは違って、基本的に毎年選手のほとんどが入れ替わるのだ。今年のチームが昨年のチームと同じわけはない。もちろん、高校チームは監督の色が強く出るから、共通点も大きいのだけれど。
さらに何年も経過すれば、指導者も交代するし、チームの置かれた環境も異なってくる。
東福岡のベスト4入りは9大会ぶりだそうだが、9年も経過すれば、昔どおりのチームを作れるはずもない。
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3回戦で敗退した帝京はかつて選手権で6度の優勝を飾った名門校だが、「15大会ぶり」の出場ともなれば、かつての帝京と比べるのは無理なことだ。しかし、「名門の復活」はメディア的には大きな話題。現場では黄金時代と比較するような質問が飛び交っていたが、選手たちやスタッフにとっては迷惑な話だったのではないだろうか。
静岡学園や帝京が活躍した1970年代から80年代にかけての全国高校サッカー選手権大会は、日本サッカー界最大のイベントだった。
Jリーグができる前の時代、日本代表はW杯でも五輪でもアジア予選を突破することができず、トップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)には停滞感が漂い、スタンドでは閑古鳥が鳴いていた。
そんななか、旧・国立競技場が満員になる試合と言えば、欧州・南米の王者が対戦するトヨタカップと高校選手権しかなかった。
Jリーグ発足前、選手の育成はほぼ全面的に高校のサッカー部が担っていた。高校選手権は年代別代表選手など、その世代のトップ選手が出場して鎬を削る場だった。JSLには大きな夢を抱けなかった時代、高校生たちにとって選手権こそが最高の目標であり、そこで燃え尽きてしまう選手も少なくなかった。
だが、最近では年代別代表の多くがJクラブの下部組織出身になっているし、トップクラスの選手たちの目標はプロ入りであり、海外挑戦だ。実際、今年の高岡伶颯(日章学園)のように高校卒業とともに欧州に渡る選手も今では珍しくない。
【1976年までは関西で開催】
高校選手権がこれほどのビッグイベントになったきっかけのひとつが、1976(昭和51)年度の第55回大会だった(開催は1977年1月)。それまで、ずっと関西で開催されていたこの大会が初めて首都圏で開催され、旧・国立競技場が決勝の舞台となった。
東京在住の僕にとって、それまでは「テレビで楽しむ大会」だったのが、この年から実際に真冬のスタジアムに足を運んで観戦する大会となったわけだ。
今年で103回目を迎えたこの大会。第1回が開かれたのは「大日本蹴球協会」が発足するより前の1918年、大正7年1月のこと。大阪毎日新聞社主催で開かれた日本フートボール大会だった。
大阪の豊中で行なわれたこの大会では、ア式(サッカー)とラ式(ラグビー)が同時に行なわれ(「ラ式」の大会は現在開催中の第104回全国高校ラグビーの前身)、「ア式」では兵庫の御影師範が優勝している(御影師範は第7回大会まで7連覇)。
当時の日本では新聞社同士の部数獲得競争が激化しており、他紙との差別化のために各新聞社はスポーツ報道に力を入れ、自ら大会を主催した。そして、1915年に大阪朝日新聞社が全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園の前身)を開催して成功したのを見て、ライバルの大阪毎日がフートボール大会を開いたのだ。
そして、第2次世界大戦を挟んで紆余曲折を経ながらも、高校サッカーは毎日新聞主催で、関西で開催されてきた。
ところが、1960年代に毎日が撤退。規模縮小を余儀なくされていた。そんななか、1970年に日本テレビ系列による中継が始まったことで高校選手権は大きな注目を集めるようになった。浦和西高校のFW西野朗(元日本代表監督)のようなスター選手も登場。関西最後の開催となった1975年度大会では浦和南の田嶋幸三(前JFA会長)が活躍した。
【首都圏開催最初の大会決勝、浦和南vs静岡学園のインパクト】
そしてさらなる規模拡大を目指して、この大会は首都圏で開催されることになった。もちろん、関西の関係者からは反発もあったが、首都圏開催の最初の第55回大会は大成功に終わった。
浦和南の2連覇という話題に加えて、静岡学園がこれまでの日本のサッカーとは異質の、個人技を生かしたサッカーで旋風を巻き起こしたのだ。
それまでの日本では「日本人はテクニックでは外国勢に劣るから、その分を走ることでカバーすべきだ」と考えられていた。高校サッカーでも「蹴って走るサッカー」が主流だった。
そうしたなかで、静岡学園を率いる井田勝通監督はブラジルスタイルを志向。ドリブルで勝負することを徹底させた。ゆっくりとボールを持ってドリブルで崩してゆくサッカーは、新鮮そのものだった。そして、初出場の静岡学園はあれよあれよという間に決勝に進出。2連覇を狙う浦和南と対戦した。
そして、決勝戦では浦和南が1年生の水沼貴史(元日本代表)の活躍などで3点を先行し、それを静岡学園が追う展開となり、終わってみれば5対4というスコアで浦和南が勝利。このスリリングな決勝戦によって、高校サッカー人気は一段と高まったのだ。
その後は、開催地東京の代表である帝京が一時代を築き、清水東や清水商業、静岡学園をはじめとする静岡勢と競り合うことで、高校サッカー人気はますます高まっていったのである。
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