■『今こそ女子プロレス!』vol.25
アジャコング スペシャルインタビュー(2)
(連載1:ブル中野との抗争で見えた「自分の肉体を通じて人に何かを伝える」というプロレスの醍醐味>>)
今のアジャコングが「アジャコング史上最高」――。最高のアジャコングはどのようにして生まれたのか? その謎に迫るインタビュー第2回では、亡き母への思い、父がアメリカ人であることでいじめに遭った過去などについて聞いた。
【親戚と縁を切ってでも「産む」決断をした母】
――アジャ選手は「マザコン気質で、母の愛が人間関係の基準になった」とおっしゃっていますね。どうしてお母様をそこまで深く愛するようになったのか、背景を教えていただけますか?
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アジャ:東京の立川出身なので立川基地があって、そこでアメリカ人の父親と日本人の母親が出会った。でも、父は私が5歳の時に本国に帰ってしまったんですよね。戦争が終わって20年くらいで。(父は)母に「一緒に行こう」と誘ったらしいんですけど、母からすると知らない土地に私を連れて行くなんて考えられなかったようです。
あと、私を妊娠した時点で(母は)親戚一同から縁を切られていたらしくて......。
――親御さんからも絶縁されたんですか?
アジャ:そうですね。祖父は明治生まれの頑固な方なので。しかも母は39歳で、昭和40年代の当時は超高齢出産なんです。さんざん「産むな」と言われたから、母は親戚と全部縁を切って、もしかしたら死ぬかもしれないけど「せっかく授かったこの子を産むんだ」と、すごい覚悟を持って私を産んでくれたんです。
父が本国に帰る時、はっきり覚えてるんですけど、母に「今日からうちはお母さんとお前、ふたりだけだからね。普通の家はお母さんとお父さんが揃っているけど、うちはお母さんがお父さんの分もやるから。絶対あなたに不自由させないようにするけど、その分あなたもちゃんと家の手伝いとかしなさいね」ということを宣言されたんですよ。「どうして?」とか聞いちゃいけない雰囲気なのは5歳児でもわかっていたし、母親の言うことは絶対だと思っていたので、「わかった」と。
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――学校では、いじめに遭っていたそうですね。
アジャ:いじめと言えばいじめ、という感じなんですよね。「肌の色が違う」といったことでクラス中から攻撃されました。でも、攻撃されたからといって、私は黙っているほうではなかったんですよ。ほかの子たちより体もデカいので、力でいけば絶対に負けない。ただ、その力を使ってしまうとケガをさせてしまうし、相手の子の親御さんたちから怒られる。
でもそういう時、母は必ず「殴ってケガをさせたのは申し訳ない。ただ、殴る原因を作ったのはお宅のお子さんです。あと、この子が生まれたのは、この子の責任じゃなくて私の責任です。文句があるなら私に言ってきてください」と、相手の親御さんたちにちゃんと言ってくれたんですよね。
――アジャ選手を守ってくれたんですね。
アジャ:本当に守られている、愛されていると感じていました。母ひとり子ひとりですけど、不自由なく育ちました。ランドセルとか勉強机とかおもちゃとか、ほかの子が持っているものはだいたい持ってましたし、お金で苦労した記憶はないです。
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【全女のテストに合格した理由を知り「さすがにショックでした」】
――お母様のお仕事は?
アジャ:もともとは自分で小料理屋をやってたんですけど、夜に私をひとりにさせないために、途中から昼間の清掃の仕事を始めました。ビル清掃とかですね。
――中学卒業後、全日本女子プロレスの入門テストに合格した時、お母様の反応はいかがでしたか?
アジャ:一回だけという約束でテストを受けて、「受かったよ」と言ったら、「ああ、そう」ってすごいあっさり言われました。「なんで『おめでとう』って言ってくれないの?」って言ったら、「受かると思ったから」と言われて、すごいこと言うなと思っていたら、「だってお前は父親がアメリカ人だからね」って。プロレスなんかの世界では、他人と違った何かがあるほうがいいんだと。自分では体力増強の練習をしたから受かったと思っていたので、イラッとしましたね。
ただ、親ってすごいですよ。全女に入ってしばらくして、(全女の創設者の)松永兄弟に「お前、今日から極悪な」って言われたんです。「クラッシュ・ギャルズになりたかったのに......」と思っていたら、「だってお前、父親がアメリカ人なんだから日本人が憎いだろ。憎めよ」って言われて。日本で生まれ育っているので、日本人を憎むなんてことはありもしないのに、でも「だからお前を取ってんだからさ」って言われた時に、ああ、母が言ってたのはこれだったんだと思って。
――ショックを受けましたか?
アジャ:受けましたね。自分の実力で全女に入ったと思っていましたから。同期にも、アメリカと中国にルーツがある選手がいたんです。「お前ら3人を揃えてみたらおもしれえ、と思ったから合格にしたんだから」という言われ方をしたんですよ。16歳でそれを言われたので、さすがにショックでしたね。
――今は、お父様がアメリカ人ということをポジティブに捉えていますか?
アジャ:今は本当によかったなと思ってます。筋トレをしても、女性ってなかなか筋肉がつかないんですけど、同じメニューをやっても私はどんどん筋肉がついていった。「女子だと僧帽筋はつかないよ」って言われたけど、特に全盛期の時はガッツリ僧帽筋がついてましたから。身体能力にしても、ブル中野さんと抗争していた時に体重が100kgを超えていてもなんでもできたのは、父からもらった血のお陰です。
体重が100kgを超えるのも才能なんです。筋肉をつけながらだと、なかなか100kgには届かなくて、中野さんはステロイドを打ったくらい、難しい。私はそこに苦労しなかったので、周囲の人たちから「それも才能のひとつだよ。誰にもマネできないことだ」と言われた時に、「お父さん、ありがとう! ラッキー!」と思いました。プロレスをするために最高の肉体をくれた父と母に感謝ですね。
【天国の母へ、唯一の親孝行】
――17歳の時、お母様が脳内出血で倒れてしまいました。
アジャ:「今まで育ててもらった分の恩を返さなきゃ」と思っていたんですけど、当時の私はまだアジャコングにもなれていなかった。ヒールになってもくすぶっていたし、入院している母のお見舞いに行くくらいで、何もしてあげられなかった。19歳の時に母が亡くなってしまうんですけど、その頃にアジャコングになって「さあ、これから」という時だったんですよ。母に何ひとつ恩返しができないまま、甘えるだけ甘えて亡くなってしまった。
――ショックだったでしょうね......。
アジャ:「自分もこの世からいなくなっちゃおうかな」と思いました。あんなに私のことを愛してくれて、大事にしてくれる人は二度と出てこない。「世界中でひとりぼっちになった」という気がしたんですけど、プロレス界のみんなから「唯一できることは、あなたがこれからしっかり生きて、自分の人生を全うするのを見せることじゃない?」と言ってもらったんです。そうか、唯一できる親孝行はそれしかない。だからとにかく「毎日なんとか頑張って、ご飯を食べて生きてます!」というのだけは見せなきゃなと思っています。
――アジャ選手の精神的な強さは、お母様の影響もありますか?
アジャ:あると思います。母は昭和6年生まれなので、戦争も体験している。母の人生のほうが波乱万丈ですし、昭和の激動の時代に女手ひとつで私を育ててくれた。当時は、日本人以外と結婚したら「非国民」などと言われた時代です。それでもいいからと、世の中とずっと闘い続けた人なので、もっと楽に生きさせてあげたかったなという思いはあります。
近所に、私と同じような出生で、生活が少し苦しい子がいたんですけど、母はうちにしょっちゅう呼んでご飯を食べさせていました。困っている人には手を差し伸べる。でも、納得いかないことに関しては、とことん自分を通して突っ張る。あの強さを、少しでもいいから身につけたいですね。世の中で一番強い人は誰かといったら、いまだに母親だと思っています。
――素敵なお母様ですね。
アジャ:私にとっては最高の母ですし、最高の"父"でもあります。産んでくれてありがとうと思いますし、だから私は堂々と「マザコンです」と言っているんです。
――お母様の愛が基準になって、人間関係がうまくいかなかった時期もあったとか。
アジャ:無償の愛をくれるのは母親だからだし、特にうちの母の場合は、私にいろいろなものを背負わせてしまったという罪悪感もあって、「娘には決して不自由はさせない」という思いで接してくれたんですけど、それは母親だからできること。他人との付き合いでは、そこまで求めるのは難しいですよね。
――どういう場面で難しいと感じましたか?
アジャ:たとえば、お付き合いする人ができた時に、「なんで私はこんなにあなたのことを想っているのに、返してくれないの!?」となったり。あとは、すごく信頼していた人に裏切られたり。今はいい意味で、「人を見たら泥棒と思え」という考えを頭の片隅に置いておこうと思っています。裏切られたことでいちいち傷ついていたら、生きていけません。ただ、今、私の周りにいる友だちや知人は、本当にみんな裏切らない人ばかりなので、奇跡の時を過ごしています。
人間は、自分の状況がいい時はいいんですけど、自分の状況が悪くなったら自分が一番になる。もちろん私もそうです。人のことを考えていられないから、裏切るつもりじゃなくても、結果的に相手にとって「裏切った」と受け取られることになってしまう場合もある。「人間ってそういうもんだよな」と思っていると、一度疎遠になっても、何年後かに戻ってきてくれる人もいるし、人に期待しすぎないのが一番いいなと思いますね。
(連載3:長与千種は憧れでありライバル プロレスを続けるきっかけになった「失望のシングルマッチ」も振り返った>>)
【プロフィール】
●アジャコング
1970年9月25日、東京都立川市生まれ。長与千種に憧れ、中学卒業後、全日本女子プロレスに入門。1986年9月17日、秋田県男鹿市体育館の対豊田記代戦でデビュー。ダンプ松本率いる「極悪同盟」を経て、ブル中野率いる「獄門党」に加入。1992年11月26日、川崎市体育館でブル中野に勝利し、WWWA世界シングル王座を奪取。1997年、全女を退団し、小川宏(元全女企画広報部長)と新団体『アルシオン』を設立。その後、GAEAJAPANへと闘いの場所を移し、2007年3月10日、OZアカデミー認定無差別級初代王者となる。2022年12月末、OZアカデミーを退団。以降はフリーとして国内外の団体に参戦している。165cm、108kg。X:@ajakonguraken Instagram:@ajakong.uraken