プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(11)
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第11回は、前回に引き続き1980年代に新日本プロレスのリングに現れた初代タイガーマスク(佐山聡)。活動期間は2年4カ月と短かったものの、プロレス界のみならず格闘技界にも革命を起こした立役者の「素顔」、他のレスラーたちに与えた影響に迫る。
【マスクなし、スーツで会場入りしてダフ屋から「チケットあるよ」】
――前回は初代タイガーマスクの偉業について伺いましたが、性格はいかがでしたか?
柴田:佐山さんは遊び心があるお茶目な人。会場入りする時にマスクを被っていると「ワーッ」と取り囲まれちゃって動けなくなるから、わざとスーツを着て素顔で入ってました。
――誰も気づかなかったんですか?
柴田:「タイガーマスク=佐山聡」ということは、当時ほとんど知られていなかったですから。昔から新日本プロレスを見ているファンは見ればわかるけど、新規のファンにはほぼ気づかれませんでした。
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だから、ダフ屋から「タイガーマスクの試合、チケットあるよ」って声を掛けられたこともあるそうですよ。まさか、タイガーマスク本人が素顔で会場に来るとは思わないでしょうから。ちなみに、木村健悟さんもダフ屋に手招きされていましたけど、「僕はマスクマンじゃないのになぁ」と、ちょっと寂しそうでした(笑)。木村さんは佐山さんの先輩ですが、仲が良かったですね。
――ほかに、佐山さんの普段の姿がわかるようなエピソードはありますか?
柴田:羊かんが大好きで、恵方巻きを食べるように一気食いしてましたよ(笑)。和菓子が好きで、ケーキよりあんこに目がなかったですね。
ある東北地方の大会で、アントニオ猪木さんにまんじゅうの差し入れがあって、立派な大きい箱に48個入っていたんです。意外と猪木さんも甘いものが好きで、「試合が終わったら食べるから誰も手をつけるなよ」とリングに向かったんだけど、その間に佐山さんがイタズラ心を出して、みんなで食べちゃったんです。
藤波辰爾さんやほかの選手も少しいましたが、とにかく佐山さんはいっぱい食べてしまって。そこに試合を終えた猪木さんが戻ってきて「ない!」と怒り狂い、「誰だ、俺のまんじゅうを食ったのは!」と言ったんですが、みんなは知らん顔。ただ、藤波さんの口の周りにあんこがついていて、2、3個しか食べてないのに猪木さんに殴られた、という話もありますね。
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【人気爆発も「俺にはイギリスが合っている」】
――初代タイガーが活躍していた時期は「タイガーマスクの正体は誰だ?」という議論が起こっていましたね。
柴田:子どもたちが「正体が誰か」と対立していたそうですね。「佐山って言うんだぜ」と得意げに言う子どもがいると、「ウソだ! タイガーは国籍不明なんだ!」と反発に遭うこともあったとか。
――当時、『週刊少年サンデー』で連載されていた『プロレススーパースター列伝』内の記述と、タイガーマスクの過去を記した別のムック本での記述が一致していたので、私は「タイガーマスク=佐山聡」という説を信じていました。
柴田:タイガーマスクが公に素顔を晒したのは、引退した1983年8月の翌月に発売された東スポの紙面でした。さらにテレビでは、1984年1月18日に放送されたテレビ朝日の人気バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』でマスクを脱ぎましたね。
――見ていました。見栄晴さんにスリーパーホールドをしたら「グギッ」とすごい音がしたような(苦笑)。
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柴田:大きな反響や惜しむ声があったでしょうが、もともと佐山さんは、マスクマンにはなりたくなかった人ですからね。爆発的な人気が出た一方で、「これは俺じゃない」「(サミー・リーとして活躍していた)イギリスに戻りたい」という思いがあったようです。ある時には、「日本のファンもいいけど、イギリスのファンもよかった」「俺にはイギリスが合っている」とも話していましたね。風土や文化が合っていたこともあるでしょうが、やはりタイガーマスクでいることに違和感があったんじゃないかと思います。
――獣神サンダー・ライガーとしてデビューした山田恵一さんは、イギリス遠征中に消息不明になった、とされて「リバプールの風になった」と発言しましたが、そうはなれなかったんですね。
柴田:そうですね。だから人気が出ても浮かれなかった。いつも冷静だった気がします。もうひとりの佐山聡が、タイガーマスクを俯瞰で見ているような感じでした。そんななかで、ライバルとして小林邦昭さんが出てきた後は試合が楽しかったみたいですよ。
新日本はファンをあまり近づけないようにしていましたね。初代タイガーは、サインもあまり書いていなかった印象があります。ただ、試合が終わってホテルや旅館に行くと、部屋に色紙が山のように積んである。ファンが宿舎に押し寄せるから、「あとでサインをもらってあげるから」と色紙を預かっていました。佐山さんはキチンと一枚一枚、丁寧にサインを書いていましたね。
【藤波のヘビー級転向にも影響】
――タイガーマスクの登場は、新日本のあり方にも影響があったでしょうね。
柴田:そういえば藤波さんも、タイガーマスクの登場で煽りをくったひとりです。
――藤波さんは1981年12月、ヘビー級転向のためWWFジュニアヘビー級王座を返上しています。
柴田:あれは、ジュニアヘビー級でタイガーマスクの人気が出たから、会社から「ヘビー級に転向してくれ」と言われたそうですよ。
――猪木さんの後継者として、藤波さんをヘビー級に転向させたのではないんですか?
柴田:それもあったと思いますよ。ただ、団体にジュニアヘビーのヒーローがふたりいても......という感じだったんでしょう。もちろん藤波さんもすごかったですが、あの頃のタイガーマスクの人気は社会現象。会社としてもタイガーマスクを王者にさせたかったでしょうけど、ジュニアヘビーの王者は藤波さんでしたから、ヘビーに転向させたんでしょうね。
藤波さんは「会社の方針だからね」と寂しそうに言ってましたよ。無理に体を大きくしたから腰に負担もかかったし、のちの「こんな会社やめてやる!」という発言(※)には、その時のことも含まれていたのではないでしょうか。
(※)1984年2月3日、長州力とのWWFインターナショナルヘビー級選手権での発言。長州の入場時に藤原喜明が襲いかかり、試合はノーコンテストに。会場を去る際に、藤波が報道陣に「やめてやる!」と叫んだ。
ヘビー級に転向したら、猪木さんにかなわない。それは藤波さんが一番わかっている。そういう意味でタイガーマスクは、いろんな選手の人生を狂わせていますね。でも、藤波さんは今、70歳を超えても現役で頑張っていますね。黒のショートタイツでサポーターもつけない。あのコンデションを維持しているのは、ヘビー級に転向したことによる体作りの変化も影響しているでしょうから、結果オーライだと思いますよ。
――藤波さんのヘビー級転向で、それ以降の選手も「ジュニアヘビーで成功したらヘビーへ」という流れができたように感じます。
柴田:それはあるかもしれないですね。木村健悟、丸藤正道、内藤哲也、飯伏幸太、ケニー・オメガ、ウィル・オスプレイ、鷹木信悟......数々の選手がジュニアヘビーからヘビーに転向していますし。
【私生活では"虎ハンター"小林邦昭とも大の仲良し】
――タイガーマスクの人気を後押ししたのは、ダイナマイト・キッドやブラック・タイガー、小林邦昭さんや寺西勇さんなど、ライバルレスラーの存在も大きかったですね。
柴田:そのライバルのひとりで、マスクを脱がそうとする"虎ハンター"とも呼ばれた小林さんとは、本当に仲良しでした。佐山さんが修斗の道場やスーパータイガージムを開いた時には、小林さんが道場生たちにちゃんこを作ってあげてましたね。だから、今年9月に小林さんが亡くなった時は、佐山さんもショックを受けていましたよ。
余談ですが、小林さんは空手道場「誠心会館」の青柳館長(=青柳政司)とも仲がよかったですね。ただ、佐山さんと青柳館長の関係は普通だったんで、食事会の時は佐山さんと青柳館長の真ん中に小林さんが座っていました。青柳館長は2022年7月に亡くなりましたが、今ごろ天国で、小林さんが作ったちゃんこ鍋を一緒に食べているんじゃないかな。
――小林さんは、誠心会館の斎藤彰俊さんと新日本で"死闘"を展開しますが、斎藤さんを見出したのは青柳館長だそうですね。
柴田:斎藤はもともと水泳が得意で、ジュニアオリンピックで優勝したり、中学時代には全国でも2位になった。中京大学に進学してオリンピックの強化選手になったけど、当時から長州さんのファンで、選手入場の際には長州さんのテーマソング『パワーホール』を使用していました。
結局は、目指していたソウル五輪に出場できず水泳を引退。スポーツ関連の企業に就職するも、格闘技をやりたくていろんな道場に通っていたんです。それで1991年8月、W★ING(ウイング)の旗揚げに参戦。徳田光輝、木村浩一郎と「格闘3兄弟」として活躍しました。
青柳館長は1990年6月から新日本に定期参戦してましたが、1991年12月に新日本と誠心会館がモメて抗争に発展。青柳館長は翌年1月4日の東京ドームに、斎藤を門下生として連れて行った。彼は誠心会館からの対戦要望宣言として、要望書を読み上げました。
――そして同年1月30日、大田区総合体育館で小林さんとの異種格闘技戦が行なわれました。
柴田:ピリついたなかで小林さんは大流血。"虎ハンター"を追い詰めたことで、斎藤の名が一気にプロレス界に広まりましたね。
【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)
1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。