試合を終えてから30分ほど経ち、日付も変わった会見エリアの一角に、疲労と落胆と、ある種の充実感も交じる特有の柔らかな佇(たたず)まいで、彼はつと現れた。
4年ぶりの全豪オープン初戦で、4時間越えのフルセットの死闘を制してから中2日。世界11位にして大会12シードのトミー・ポール(アメリカ)との戦いは、雨の順延を繰り返し、強風吹きすさぶ寒さのなかで封切られた。
ポールはジュニア時代から将来を嘱望されるも、やや開花の時まで時間を要した27歳。手の感覚に優れたオールラウンダーは、錦織と似たセンスときらめきの持ち主だ。
3000人を収容する「ショーコート2」は、雨のなかでも席取りを続けた錦織圭ファンの熱と願いに満たされる。試合序盤から沸き起こる『レッツゴー・ニシコリ』コールを背に受け、錦織は強風を切り裂き超攻撃テニスを披露した。
特に相手のセカンドサーブでは、コースを読みきったかのように前に踏み込み、ボールの跳ね際を鋭く叩く。身体の正面で跳ねるキックサーブを、上体を大きく後ろに逸らせつつ、スイートスポットで捉え決めるリターンウイナーは、まさに錦織ならではの匠の技。
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ふたつの才能が火花を散らす鍔迫(つばぜ)り合いから、先に抜け出したのは錦織だ。緊張感高まるタイブレークの打ち合いでは、打った瞬間はアウトになるかに見えた強打が鋭くも美しい弧を描き、ライン際を深くえぐる。
そのたびに爆ぜる大歓声が、錦織に一層の勢いを与えた。第1セットは7-6。挑戦者のはずの錦織が王者の風格をまとい、第1セットをモノにした。
先に結果から言うならば、この第1セットが、この試合で錦織が手にした唯一のセットにはなった。第2セットではポールが長いラリーを嫌がらず、しぶとく、なおかつ追い込まれた状態から鋭いカウンターを決め、錦織を幾度も立ち尽くさせた。サーブの精度も大きく上がり、錦織はリターンからチャンスを見いだせない。
【悲観的な空気を再び興奮の渦に変えた】
試合後、ポールは第2セットに向かう時の心境を、こう明かした。
「圭は、ものすごくスピーディなプレーをする。また、そうしている時の彼は、試合を完全に支配下に置いていた。だから僕は、まずは守備をがんばろうと思った。同時に第1セットのスタッツ(統計)を見たら、セカンドサーブでの取得率がものすごく悪かった。圭は僕のセカンドサーブを完全に狙ってきていたので、もっとファーストサーブを入れなくてはと考えた」
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第1セットのポールのセカンドサーブポイント取得率は23%。ファーストサーブの確率は72%と十分に高いが、第2セットは75%まで上げ、同時にサーブでのポイント所得率をセカンドでも50%まで上げたのは、やはり世界11位の実力者だ。
第2セットを6-0で圧倒したポールは、第3セットも4-0とリード。この時点で見る者の関心は、勝敗の行方以上に、錦織が最後までコートに立てるか否かに移行したかのようだった。
だが、そんな悲観的な空気を、錦織は再び興奮の渦(うず)に変えてみせる。
ポールのダブルフォルトでまずはブレークすると、サーブからの3球目や、リターンで押し込んでからのボレーと、早い展開でポイントを決めていく。0-4から3-4に追い上げ、第8ゲームでも2本のゲームポイントに。相手の後ろ髪に、手が届いた。
「第3セット中盤の圭は、あまりにショットのスピードが速く、コースも次々に変えてくる。僕の打つボールが、何とも遅く感じたくらいだ」
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世界11位も錦織の速攻に時間を奪われ、焦ったことを認める。ただ、最終的に第8ゲームでは、錦織の強打をラケットの先で引っかけるように切り返す、ポールの「手の感覚のよさ」が光った。錦織がこのゲームをキープできなかった時点で、事実上の勝敗は決する。
「後半は、ちょっと無理でしたね......足が」
試合後の錦織が、悄然とつぶやいた。最終スコアは、7-6、0-6、3-6、1-6。試合が終わった時、時計の針は深夜0時近くを指していた。
【英国記者が率直な疑問を投げかけた】
試合後に「身体の疲労度」を問われた錦織は、少し寂しそうな笑みを浮かべ、「意外と負けたことより、そっちのほうがショックがあって......」と朴訥(ぼくとつ)に思いをつづる。
「なんか、まだ回復しないんだっていう......2日間あっても。1セット目は大丈夫だったんですけど、3セット目ぐらいから(体勢が)低くなれなかったり、足が動かなかったり。けっこう2日間がんばってリカバリーしたんすでけど、これが歳なのか、やり方の問題なのか。うーん、なんかそこらへんが......負けたのはもちろんあれですけど、この先、大丈夫かなって」
そう言い、いたずらっぽく浮かべる笑みの真意は、どこにあったろうか。
ただ、「回復力はこの先、ツアーを転戦すればついていくものか?」と問われると、彼は「その可能性はあると思います」と即答した。
「もう少しツアーで試合をこなして体が慣れてくれば。トレーニングだけでは得られない慣れというか、そういう部分も多少あるのかな。どうなんですかね......これが歳なのか、試合数をやってないからか。そこらへんは今後、またプレーして感じながらですね」
不安を口にしながらも、その目はすでに先を見る。錦織がグランドスラム2回戦で世界11位と戦い感じた「ショック」とは、テニスの感覚や身体そのものに不安を感じたステージを脱し、次のフェーズに達したからこそ、覚えたものでもあるだろう。
思えば今回、錦織が4年ぶりに全豪オープンに戻ってきた時、英国の記者が「いったい、何が圭のモチベーションなのか」と不思議そうにしていた。
その記者が初戦後の会見で、率直に自身の疑問を問う。
錦織は、こう答えた。
「I just still love to play tennis」──僕はまだ、純粋にテニスが好きなんだ──。
「今日みたいに、大きなスタジアムでプレーしたい......それが目標だった。まだトップ選手と戦えるチャンスが自分にはあると、去年末に感じることができた。試合をするのは、楽しいんだ」
【錦織を少年時代から知る人物の想い】
今大会の初戦終了後、少年時代から錦織をよく知る鳥取県・遊ポートテニスクラブコーチの石光孝次氏が、こんな想いを届けてくれた。
「本人しかわからない、コートへの忘れ物を取りに帰って来た感じでした」......と。
その言葉を錦織の母・恵理さんに伝えた。彼女が言う。
「忘れ物、多いですからね、彼。錦織家、みんなですけど」
きっとまだ、世界中のいろんなコートに、彼には"忘れ物"があるのだろう。それを取り戻すまで、錦織圭はコートへと帰ってくる。