若き日の青山敏弘がぶち当たったプロの壁 ミシャとの出会い、そして生涯忘れることのない悔しさ

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2025年01月20日 17:20  webスポルティーバ

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引退インタビュー
青山敏弘(サンフレッチェ広島)前編

 2024年12月1日、エディオンピースウイング広島では、青山敏弘の引退セレモニーが行なわれていた。

 サンフレッチェ広島ひと筋で21年間プレーしてきたバンディエラ(長くひとつのクラブに所属している選手。フランチャイズプレーヤー)は寒空の下、半袖のユニフォーム姿のまま、15分近くにわたって感謝の辞を述べ続けた。

 セレモニーが終わり、しばらくしてミックスゾーンに現れると、「まだ何かあると思うんだよね。終わっていないので」と不敵な笑みを浮かべた。

 この日の試合に勝利し、チームが逆転優勝の可能性を残したことで、青山のストーリーには終止符が打たれず、まだ続きがあったのだ。

 翌週に行なわれたACL2の試合で見事にゴールを決めた青山は、週末のガンバ大阪との最終節でメンバー入りを果たした。結局、ピッチには立てず、試合にも敗れたものの、青山は最後までその「何か」を信じ続けていた。

「ここからが勝負だろうな、と思っていたので。最後にどうなるか。結局、(最終節でヴィッセル神戸が勝って広島の優勝は)成し遂げられなかったけど、その場にいさせてもらえたのはありがたかったし、自分でもメンバー入りするところまでよく上げてこられたなと。今年1年、もっとできたなって今となっては思うんだけど、それでも最後まで優勝争いができたっていうのは、幸せなことでした」

 リーグ優勝にあと一歩まで迫りながらも、ついにたどり着けなかった。それでもその悔しい結末は、多くの試練を味わってきた青山らしい最後だったと言えるかもしれない。

 青山がクラブから2024年限りでの契約満了を告げられたのは、このセレモニーからおよそ1年前のことだった。

 シーズンオフの強化部との面談の際に、足立修強化部長から思わぬ言葉を聞かされた。足立がその職を辞し、来季(2024年)からJリーグのフットボールダイレクターに就任するというのだ。

 スカウトとして自身をプロの世界に導き、その後は責任者として広島の強化に携わってきた人物だ。青山にとっては20年間の歩みを見守り続けてくれた恩人である。

 何も知らなかった青山は、思わず問い詰めた。

「じゃあ、誰が自分に最後の言葉を告げるんですか?」

 すると足立は、意を決して、こう言った。

「じゃあ、俺から言う。アオ、来年でラストだ」

 それは、広島と青山の蜜月の終焉を意味した。

【引退を受け止めるのに時間はかかった】

 もっとも青山は、その時点で引退を考えていたわけではない。だからといって、移籍してまで現役を続ける、という選択肢はなかった。

「この1年で活躍して、また契約をもらう。クラブの判断を覆す活躍をするっていうことだけ。だから、足立さんにそう言われたことは、逆に覚悟になりました」

 引退か、現役続行か──。青山は並々ならぬ覚悟で、2024年をスタートさせた。

 しかし、その想いとは裏腹に、試合に絡めない日々が続く。そしてシーズンも差し迫った10月に新しい強化部長との話し合いが行なわれ、再度、契約満了を告げられる。この時、青山は引退を決めた。

「ほぼ、決まっていたことなので。ただ、受け止めるのに時間はかかった。1週間くらいかな。現実に向き合って、お世話になった方々に挨拶をして、それからクラブに引退を伝えました。ある程度、覚悟はしていたけど、気持ちの整理はなかなかつかなかったですね」

 そして10月20日、青山の引退がクラブから正式にリリースされた。

 青山が広島に加入したのは、2004年のことだった。高校を卒業したばかりの18歳は、早々にプロの壁にぶち当たった。

「何をすればいいか、本当にわからなかった。どうやれば試合に出られるのか。何をクリアすれば試合に出られるのか。その基準がまったくわからなかったから」

 ボランチを主戦場とする青山だが、当時は右ウイングバックでのプレーも求められた。プロ初出場となったリーグカップでも、そのポジションで起用されている。その試合でゴールを決める活躍を見せたものの、何を求められているのか理解できないでいた。

「右サイドからフォワードにクサビを入れる練習をよくしていましたね。そこで前を見るイメージができてきたっていうのはあった。その後にトップ下でも試されて、そこで裏に走ったり、前から守備をしたりっていうのがだんだんできるようになった。体力的にもプロのレベルに慣れてきたのもあって、途中からはちょっとずつ可能性が見えてきたんだけど......」

【ミシャが俺の判断をほめてくれた】

 苦しみながらも、何かをつかみかけたルーキーイヤーを経て、迎えた勝負の2年目。しかし5月に行なわれたサテライトリーグの試合で、左ひざ前十字じん帯断裂の大ケガを負い、シーズンを棒に振ることとなった。

 何もできない失意の2年間を過ごしていた青山だったが、プロ3年目に運命的な出会いが待ち受けていた。小野剛監督の辞任を受け、新たな監督として欧州からからやってきたのが、ミシャことミハイロ・ペトロヴィッチである。革新的な攻撃スタイルを標榜するこの指揮官が、青山の才能を見出したのだ。

「最初から、ミシャのサッカーには合っていたと思います。運動量、3人目の動き、縦パス、全部ハマっていましたから。これをやれば、試合に出ることができる。その基準が初めてわかったというか。監督の求めるものにフィットしていた実感があったので、それが本当に楽しかったですね」

 ペトロヴィッチ監督の初陣となった名古屋グランパス戦、青山は3-1-4-2の1ボランチに抜擢されてリーグデビューを果たし、3-2の勝利に貢献。以降、このポジションをモノにした。

 実はデビュー戦の1週間前までは、サブ組で練習していたという。

「でも、自分のなかではいけると思っていたし、チャンスはあるなと。だって誰よりもミシャのサッカーを表現するパフォーマンスをしていたから。みんなには、もしかしたら出られるかもとしれないと言っていたけど、内心では絶対に出られる自信はありました(笑)」

 ミシャの教えで最も印象に残っているのは、縦パスのタイミングだった。

「練習の時に横パスをワンタッチで縦に入れたら、(佐藤)寿人さんに『まだ準備できてないから、もうひとつタメてから出してくれ』って言われたんです。でもミシャは『アオの感覚でいいんだ。ヒサがアオのタイミングに合わせるんだ』って。

 寿人さんはバリバリのエースで、俺はまだ試合に出たこともない。それなのに、俺の判断をほめてくれたんです。その時に初めて認められたというか、自分のプレーでいいんだって思うことができた。

 横パスをダイレクトで縦に入れるというプレーは、ミシャと一緒に作っていったもの。逆にトラップしたら、怒られる。そうやって基準を明確に教えてくれたし、それで結果も出せた。自分の基準もそうだし、クラブの基準もそう。それを一気に上げてくれたから、やっぱり広島にとってミシャの存在は大きかったですね」

【生涯忘れることのない悔しさ】

 ミシャの下でついに才能を開花させた青山だったが、翌2007年に再び試練が訪れる。チームの主軸を担う一方で、北京五輪を目指すU-22日本代表の活動にも参加するなかで、コンディションを落としてしまったのだ。

「コンディションと感覚がまったくフィットしなくなって。チームの状態がよくないなかで、そこに自分が何かをもたらす力を出せなかったのは、きつかったですね。チームを動かすだけのパワーがなかったんですよ。何もできなかったし、本当にもどかしかった」

 青山は北京五輪出場をかけたサウジアラビアとの一戦で、決死のシュートブロックでピンチをしのぎ、予選突破の立役者となった。一方でその試合で右足を骨折し、残りのシーズンのピッチに立てなかった。

 残留争いに巻き込まれていた広島は最後まで状態を上げられず、京都サンガとの入れ替え戦に回ることとなり、その試合に敗れてJ2降格の屈辱を味わった。その瞬間を、松葉づえ姿の青山は何もできないまま受け入れるだけだった。

 それでも青山にとっても、広島にとってもこのJ2降格は、大きなターニングポイントとなった。

「自分の力もそうだし、チームの力のなさも突きつけてくれた。変わんなきゃいけないなって。あの降格は、いいきっかけになりましたね」

 2008年、降格した広島はJ2の舞台でまさに無双状態だった。開幕から首位の座を譲ることなく、7試合を残してJ1復帰を決めた。勝ち点100、得点99と他を寄せつけない圧倒的な強さを示したのだ。

「本当に自信をつけてJ1に戻ることができた。3-4-2-1のシステムが築かれたのはこの年だったし、僕自身のスタイルが築かれたのもあの年だったと思う。縦パスだったり、勝負するパスだったり、展開力だったり、J2でやったことで、磨かれていったと思っています」

 一方でその2008年には、生涯忘れることのない悔しさも味わった。すべてをかけていた北京五輪のメンバーから落選したのだ。

【反町監督を別に恨んではいない】

 メンバー発表の日、青山は大阪から広島に向かう新幹線のなかで、落選の報を受けた。呆然とした青山は地元の岡山駅で下車すると、抜け殻のように1時間以上もホームのベンチに座り続けた。

「自分自身はいいですよ。やっぱり、家族が期待してくれていたので。予選も東京まで応援しに来てくれていたし、そういう期待に応えられなかった自分の力のなさが、本当に情けなかった。

 すべてをかけてやっていたし、チームもJ2に落ちてしまった。今までやってきたことは、全部なんだったんだろうって。

 まだ21歳の青年が、国もそうだし、クラブのためにも張り詰めた状態でやってきたのに、それでも叶わなかった。本当に大きなものだったから、それをすべて失ったという感覚でしたね」

 それでも、北京五輪代表を率いた反町康治監督には感謝しているという。

「別に恨んでいないし、ソリさんがクラブの監督(湘南ベルマーレ、松本山雅FC)になってからは、試合で会えば必ず挨拶に行っていました。もちろん選ばれなかったのは悔しかったですけど、その分、返しましたから。ほとんど負けなかったんじゃないかな、ソリさんのチームには」

(つづく)

◆青山敏弘・中編>>長谷部誠に「もっと落ち着いてプレーできるだろ」と指摘された


【profile】
青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ、岡山県倉敷市出身。2004年に作陽高校からサンフレッチェ広島に入団。2006年から主力としてボランチでチームを統率し、2013年には日本代表デビューを果たす。広島を3度優勝に導き、2015年にはJリーグMVPを受賞した。2024年に現役引退を発表し2025シーズンより広島のトップチームコーチに就任する。日本代表歴=12試合1得点。ポジション=MF。身長173cm、体重74kg。

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